増上寺
所在地東京都港区芝公園四丁目7番35号
位置 ⇒北緯35度39分26.74秒
東経139度44分53.8秒
山号三縁山(さんえんざん)
宗派浄土宗鎮西派大本山
本尊阿弥陀如来
創建年明徳4年(1393年)
開基聖聡
正式名三縁山 広度院 増上寺
札所等江戸三十三箇所21番
文化財三解脱門、紙本著色法然上人絵伝ほか(重要文化財)
徳川家霊廟
表・話・編・歴
本堂大門
増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。
目次
1 起源と歴史
2 伽藍
3 徳川家霊廟
4 文化財
4.1 重要文化財
4.2 東京都指定有形文化財
5 歴代法主
6 関連項目
7 アクセス
8 外部リンク
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空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる。
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、徳川家康によって現在地の芝へ移された。
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。
また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、延宝8年(1680年)6月24日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。
また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良上野介が勅使饗応役の浅野内匠頭に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという逸話が忠臣蔵のドラマなどで有名である。
明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち明治7年(1874年)1月1日排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。
太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。
東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を土地として提供している。
なお、この付近の町名や地下鉄の駅名に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭和12年に作られた、コンクリート造のものである。
伽藍
三解脱門(さんげだつもん、重要文化財) - 戦災をまぬがれた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。
大殿 - 昭和49年(1974年)の再建。
増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。