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与謝蕪村の墓
墓(はか)は、死体(または遺骨)を葬り、故人を弔う場所。一般に墓石・墓碑などを置く。またこの墓石・墓碑のことを墓ということもある。
王などの有力者は巨大な墓を築くことも多く、それらは単に死者を祀る場ではなく、故人の為した業績を後世に伝えるモニュメントとしての性格も帯びる。王や皇帝の墓は法令または慣習により、陵と呼ぶ。また、古代日本では墓を「奥都城、奥津城(おくつき)」と呼んでおり、これにならって、神道墓をそう呼ぶ。
なお、墳墓は「築く」といい、その他の墓や塔は「建てる」という。建てた人という意味で建立者の名を刻む場合は、殆どが「建之」の字を当てる。
また、「墓場」という語は、墓地(埋葬される場所)と刑場(殺害される場所)の2種類の意味があり、文脈で意味するものが異なる。例えば、映画や小説などのフィクション作品で見られる「ここが貴様の“墓場”だ」という台詞では、“墓場”は、いわゆる“刑場”を意味する。
目次
1 様々な墓
2 日本における墓制(沖縄・北海道などに例外あり)
2.1 柳田民俗学の解釈とその問題、改善点
2.2 近代以降のお墓
2.3 現代の墓地における行政
2.4 墓地、埋葬等に関する法律
2.5 その他の法律
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様々な墓フレデリック・ショパンの墓
(フランス、パリのペール・ラシェーズ墓地)亀甲墓(沖縄県)無縁仏(神戸市立鵯越墓園伊屋ケ谷沿い)
また、日本でも沖縄では、亀甲墓(かめこうばか、きっこうばか)や破風墓(はふばか、家型の墓)など一風変わった墓も見られる。亀甲墓の形状について、「人は死んだらまた母親の胎内に戻っていくという趣旨で、その胎内をかたどったもの」という説明は俗説である。欧米系の墓は墓所に詳しい。かつては北欧でもヴァイキングが船型墓を建てていた。
面積で世界最大とされるのは日本の仁徳天皇陵(大仙陵古墳、大阪府堺市)である。
墓を設けるのは人類共通の習慣ではなく、これを用いない民族・文化も多い。インドやインドネシア・バリ島のヒンドゥー教においては、遺体を火葬した後に遺灰と遺骨を川もしくは海に流し、またはガンジス川に遺体そのものを流して水葬にし、墓を設けない。また墓を設けることと、それに継続的に参拝することはイコールではない。日本でも、ヒンドゥー教のように遺灰を海や墓地公園のようなところで散骨するというやり方も最近では認められつつある。キリスト教徒もかつては教会内部に死者を納め最後の審判の後に復活することを待った。
日本における墓制は、柳田国男の民俗学の研究が土台になってきた。柳田系民俗学は、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視したため、遺体を埋める埋め墓(葬地)とは別に、人の住む所から近い所に参り墓を建て(祭地)、死者の霊魂はそこで祭祀するという「両墓制」が、日本ではかつては一般的だった、としている。(葬地と石塔と隣接させるのが「単墓制」としている。) そのため、遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかったとしている。
しかし、このような墓制には批判が出てきている。岩田重則は、『「お墓」の誕生』(岩波新書)の中で、墓制を(1)遺体の処理形態(遺体か遺骨か)、(2)処理方法(埋葬か非埋葬か)、(3)二次的装置(石塔の建立、非建立)の3つの基準で分類している。(現在一般的な「お墓」は、「遺骨・非埋葬・石塔建立型」)。墓に石塔が出来てきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった(「遺体・埋葬・非建立」型)。また、浄土真宗地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかった(遺骨・埋葬/非埋葬・非建立型)。このように、柳田のいう「単墓制」「両墓制」というのは特に「遺体・埋葬・建立型」に限った議論において、葬地と祭地が空間的に隔たっていることの分類に過ぎず、日本全国の多様な墓制の歴史的変遷に対応させるには無理があるとの批判である。
なお、沖縄・南西諸島では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。風葬も参照のこと。(現在でも沖縄の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する。