坂田道太
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坂田 道太(さかた みちた、1916年7月18日 - 2004年1月13日)は、日本政治家元衆議院議員)、第64代衆議院議長(在任期間・1985年1月24日 - 1986年6月2日)。 熊本県八代市出身。父は政友会衆議院議員・八代市長を歴任した坂田道男。清廉かつ公正中立なハト派政治家として知られた。
目次

1 来歴・人物

2 経歴

3 著書

4 参考図書

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来歴・人物

八代中学旧制成城高等学校(現・成城大学)を経て、1942年東京帝国大学文学部卒。石井光次郎商工相秘書官などを経て、1946年の衆議院議員選挙で初当選。以後、連続当選17回。自民党内では緒方派→石井派に所属し、石井派解散後は政界引退まで無派閥を通す。厚生大臣文部大臣防衛庁長官法務大臣などを歴任。大達茂雄に敬事して文教族として活動し、後に首相となった海部俊樹森喜朗らを指導、文教族の「校長」と呼ばれた。

学生運動が激化していた1968年、党文教族実務家としてのキャリアを買われ、佐藤栄作政権の文部大臣に就任。「最大の痛恨事」と回想する東京大学入試中止を決定するとともに、1969年1月には東大安田講堂事件直後の東大を佐藤首相とともに視察する。同年8月には大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)制定を推進し、大学紛争沈静化をはかった。

1974年、三木内閣では防衛庁長官に就任。組閣予定では坂田は法務大臣稲葉修が防衛庁長官に就任する予定であったが、稲葉が三自衛隊の長官としては高齢であるとの意見が出たため、大臣を交換したと言われている(松野頼三は後年、「三木武夫首相に腰の曲がった稲葉が防衛庁長官では見栄えが悪いから」と交換を進言したと熊本日日新聞紙上での自身の回顧禄にて述懐している)。田中角栄とは親しかった坂田は後年、もし法相に就任していたら苦悩しただろうと回顧している。いわゆる三木おろしの際には、挙党協出身の閣僚が軒並み三木に反旗を翻す中「防衛庁長官は三自衛隊の長に殉じる」と中立の立場を示した。

また、「国防の議論は国民的な支持、納得を得られるものでなくてはならない」として、民間人からなる有識者懇談会「防衛を考える会」を設置、久保卓也事務次官と共に、「防衛計画の大綱(防衛大綱)」を策定、防衛力整備の考えとして「基盤的防衛力」構想を根幹に置く路線を決定した。同様に議論の透明性を確保するため、従来予算・外交委員会などで散発的に審議されていた防衛問題について、国会に専門で審議を担当する委員会の設置を主張した。また、日米防衛協力の具体化のため、政治レベルでの防衛協議を開始したことでも知られる(このような日米協力路線は福田政権で成立する「日米防衛協力のための指針(旧ガイドライン)」の原型となった)。ベレンコ中尉亡命事件の際には「作業は、たとえミグ屋(アメリカのミグ解体専門チーム)の手を借りることとなっても、イニシアティヴだけは、しっかり日本側で取るべし」と当時の角田義隆空幕長に指示。ミグ25を完全に解体して調べ上げ、また元のように組み立て直してソ連に返還した。防衛庁長官連続在任記録1位。

1985年1月福永健司の後任として、二階堂進を棚上げするために推す中曽根康弘執行部とそれに反対する田中角栄周辺との折衝の末、第64代衆議院議長に就任。1986年6月まで務めた。

1989年竹下登首相辞任の際、後継総理総裁就任の打診を受けたが、「議長経験者が首相になるのはよくない」として固辞(第一次大平正芳内閣成立時にも大平からの自民党政調会長への就任要請を固辞している)。1990年、政界引退。

引退後の2000年5月14日、NHKの「日曜討論」で森喜朗首相が「亡くなられた坂田さん…」と発言し、存命中であったにも関わらず物故者扱いされてしまった。夫人から「あなた、死んだわよ」と言われ、坂田も「そうか」と笑って受け流したという(勿論、後日森から釈明があったことは言うまでもない。坂田の元秘書だった元衆院議員渡瀬憲明の死去と勘違いしたという)。


経歴

1916年7月18日坂田道男の長男として生まれる。

1946年 衆議院議員選挙に立候補し、初当選。

1959年1月 厚生大臣第2次岸内閣

1968年11月 文部大臣第2次佐藤内閣第2次改造内閣

1969年1月20日 東京大学入試中止を決定

1974年5月 全国経理学校協会(現:全国経理教育協会)会長(1990年5月まで)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki