地車
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この項目では、地車(だんじり)について説明しています。

他のだんじりについては「だんじり」をご覧ください。

運搬用具については「手押し車」をご覧ください。

車地(しゃち)については「轆轤」をご覧ください。

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出典検索?: "地車" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年1月)
御座船地車(大阪歴史博物館)堺市中区深井中町西の下地車

地車(だんじり・だんぢり)は、神社祭礼で用いられる屋台・「山車」の一種。主に関西地方で多く見られる[1]。大小2つに分かれた独特の破風屋根を持つ曳き山で、多くの彫刻が組み込まれ、刺繍幕や金の綱、提灯ぼんぼりなどの装飾が施されている。主にケヤキを用いて造られており、コマにはが用いられる。

大阪府から兵庫県南東部にかけては、だんじり(地車)といえば大屋根・小屋根(前屋根・後屋根、男屋根・女屋根と呼ぶ地域もある)からなる二段の屋根を設えた上・下地車を意味するが、大阪から離れた滋賀県三重県岡山県などでは、一般的には山車と呼ばれる段差のない一つ屋根で、彫刻より飾り幕による装飾を主体とした曳き屋台もだんじりと呼ばれる場合がある。なお地車を「だんじり」と読むのはあくまで俗な呼び名・当て字であり、地車の本来の読みは「じぐるま(ぢぐるま)」である。慣例的に書き言葉としては地車を用いることが多いが、地車には切妻屋根の簡素な曳き屋台や、古語では単なる四輪の運搬台車も含み、より広義的な意味を持つ。
概要

近畿地方泉州河内摂津などの地域を中心に、近畿の広域で見ることができる。

地車祭り(だんじり祭)とは、地車と呼ばれる山車を曳く祭り、地車囃子の演奏を奉納する祭礼の総称で、大阪府・兵庫県南東部・奈良県を中心に近畿地方の各地で、夏から秋にかけて行われるものが多い。岸和田だんじり祭がよく知られている。

祭礼におけるだんじり(だんぢり)や太鼓台の運行は伝染病が流行しないことを祈願する神社夏祭、或いは五穀豊穣、農・漁業の収穫を感謝し、豊作・豊漁を願う秋祭に曳き出される催しであり、神社・氏子・自治会が主体となる世話人・保存会、若中・青年団で運営されてきたものであるが、そうした由来にかかわらず、地元住民の楽しみとしてのイベント色の傾向が強くなりつつある。
歴史

各地車囃子のホームページ等には、豊臣秀吉による大坂城築城の際、地車囃子を奉納したという記事が頻繁に見うけられる。築城は古墳造営と同じく大規模な土木工事であるが、そこで巨岩などを運搬する際の掛け声等が、地車[地車囃子]のリズムを形成していたという。各地車囃子の保存会、講・連の中には、この説を支持している古老が少なくない。大坂築城のころには地車、および囃子が摂津国、すでにその周辺地域に定着していたとしてもよかろう(築城は畿内以外でもなされているので、この考えに矛盾点もある)。朝日放送のテレビ番組である『 ⇒歴史街道』においては、「豊臣秀吉が摂州だんじり囃子を気に入った」と放送されている。さらにのち、3代将軍徳川家光時代の寛永年間に地車の宮入が大阪天満宮で始まったという記録があり、安土桃山時代の囃子が継承されていたと考えられる。

だんじり祭りの歴史として300年以上を謳う例が多いが、江戸時代から氏神の祭礼での奉納・祝賀として、また庶民の楽しみの一環として鳴り物を乗せた屋台と共に行列が練り歩いた事例はあったとされる。それは京都祇園祭山鉾巡行を模倣したものと言われる。しかし、今日曳行されている地車とは大きく異なる屋台であった。現代の地車の様式の原型が登場したのは江戸末期から明治にかけてと考えられる。現存する地車でも古いものほど地車の彫刻は柱、屋根廻り(枡合、車板)の唐獅子牡丹、それに拝懸魚の朱雀程度で調度が簡素である。江戸末期の大坂の名所・歳時を描いた浪華百景に天神祭に宮入りする地車、摂津名所図会には坐摩神社に宮入する地車が描かれているが、そこに描かれているのは今の上地車の形態であるものの、見送りや泥幕は紅い幕でしかない。泰平の世で庶民の文化水準、経済力が向上し、加えて他町への対抗心から時代と共に地車が豪勢に変容してきている。

大阪市以北の古い地車には見送り(地車中段後方)に化粧幕を用いた型や、泥幕(地車下部)が単なる染めた幕や格子状のものが残存していたが、しかし、修復の際に彫刻の見送り(三枚板)や、泥幕に変更する例が増えている。彫り物の題材としては古いものは龍や唐獅子の外に鳳凰麒麟などの神獣や鳥獣、花鳥風月や仙人など中国の故事にちなんだ彫り物が多く見られ、時代が経つに連れてに神功皇后三韓征伐スサノオノ尊のヤマタノオロチ退治などの神話や伝承民話ものが加わる。そして明治期の講談の流行を受けて『難波戦記』『太平記』、源平合戦などの軍記ものが好まれ、武将が主たる彫り物となり現在に至る。なお、吹田地域では修理で大きな改造がなされていない、古い様式を留めている地車が今も残っている。

幕末から昭和初期にかけては大阪市中や中河内にも少なくない地車を扱う大工や彫師が居を構えていたが、その当時からも淡路島は地車・太鼓台の産地であり、淡路から大阪に多数の地車が海を渡って来たという。

堺における練物(屋台行列)の歴史は古く約400年前。元禄元年には開口神社氏子によってが作られ、これが後のだんじりの原型だとも言われている。天文6年(1741年)に貝塚の感田神社では「堺の引きだんじりを借りるかどうか」と論議した記録が残っている。しかし、これが今のだんじりの様式かどうかは分かっていない。これらのことから堺はだんじり発祥の地とする説もあり、往時は数十台の地車が存在したことが記録されている。故に彫師の彫又こと西岡一門や地元地車大工の河村、木村一門ら、北に隣接する住吉には大源、大佐一門という大阪、堺・住吉型地車の細工職人も多く所在した。明治期までは堺においても多数の地車が祭礼に繰り出されていたが、明治28年、住吉大社夏越祓のおり、紀州街道中之町大道付近で地車同士のすれ違い時での喧嘩で殺傷事件が起る。それを契機に警察は地車の運行を禁止した。その事から堺旧市内では、日露戦争以降はふとん太鼓のみが巡行を許可されるようになる。その影響か住吉界隈の祭礼での地車の曳行も衰退していく。堺以外にも現羽曳野・河内の誉田八幡宮で初めて鳴り物を乗せた壇尻が登場したとする記録(河内名所図会・摂津名所図会)も残るが、それは花車の様な形態で現在の地車に近似した形ではない。いずれにしろ堺で発展しただんじりが他の泉州各地、およびの摂津、河内で曳行されるだんじりに与えた影響は大きい。堺で地車が禁止されると堺の地車が近畿各地に売却され、堺型地車が広く分布されるきっかけになった。

堺郊外(新堺市域)には明治期の地車禁止令から除外され、また戦火に免れた地車も残った。しかし昭和30年代の地車衰退期にその多くが売却や焼却・解体処分された。昭和50年代に入ると堺でも再び地車新調ブームが起こるが、この頃から岸和田の影響を受けた上地車(後部に下だんじり特有の後梃子が付く)、岸和田の下地車そのままの型式が増えていく。さらに平成の時代になると岸和田以外の泉州各地、堺でもやり回しが定着し、伝統的な堺型上地車より安定性の良い岸和田型の下地車の比率が多くなった。

堺型上地車(堺市津久野地区)

堺型上地車(大鳥大社にて)

大阪市中・なにわ

今でも天満界隈は地車囃子の演奏が盛んであるが、現存する地車は三つ屋根のだんじり(だんぢり)一台しかない。大阪天満宮の夏祭には享保17年(1732)に50台、最盛期の安永9年(1778年)には84台の地車(氏地以外の地車を含む)の曳行が記録されているが、天満、及び大坂三郷で地車の台数が減少した理由は定かでない。


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