土橋 勝征
東京ヤクルトスワローズ No.75
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県船橋市
生年月日1968年12月5日(39歳)
身長
体重179cm
83kg
選手情報
投球・打席右投右打
守備位置内野手
プロ入り1986年 ドラフト2位
初出場1987年10月21日
最終出場2006年10月15日
経歴
千葉県立印旛高等学校
ヤクルトスワローズ(1987 - 2006)
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土橋 勝征(どばし かつゆき、1968年12月5日 - )は、千葉県船橋市出身の東京ヤクルトスワローズで活躍した元プロ野球選手。現在は同チームの2軍打撃コーチ。夫人は女優の白島靖代。
目次
1 来歴・人物
2 エピソード
3 略歴
4 年度別打撃成績
5 背番号
6 関連項目
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印旛高校から1986年ドラフト2位でヤクルト入団。高校時代は長打力に長け、プロ入りしてからもバットを長く持つ打法であったが、打撃向上せず、後半の守備固めや控え的な存在だった。また内野守備でもイップス病にかかり、野村克也監督の指示で外野手にコンバートされる。8年目の1994年に欠場のジェラルド・クラークに代わり左翼手を務めると、イップス病も解消され、バットを短く持ち、右方向に流し打つ打撃に転向、一時3割を越える好打率をマーク。クラーク復帰後は二塁手のポジションに定着し、入団8年目にしてレギュラーの座を勝ち取る。1995年は、シーズン途中から3番に座って打率3割をマーク、チームの日本一に貢献した。2003年、2004年には規定打席数未満ながら打率3割をマーク、健在ぶりを示す。また、二塁手以外にも内外野のポジションをこなせるユーティリティプレーヤーとして活躍。しかし、城石憲之のレギュラー定着、若手起用の方針もあって2軍暮らしが続き、2006年現役引退。ヤクルト一筋20年現役を続けた。引退後、2007年よりヤクルト二軍打撃コーチに就任していたが、2008年4月20日より首痛の大田卓司一軍打撃コーチに代わり期間未定で一軍に合流中。
エピソード
非常に照れ屋でヒットを打っても表情を崩さなかった。口下手でありヒーローインタビューを絶えず拒んでいた。
職人肌の選手で、練習熱心で休日返上で打ち込みをしていた。
打撃面では、追い込まれたカウントでもファウルで懸命に粘ったり、難しいボールを巧みに右打ちするなど、玄人好みの打撃が光り、良い意味でいやらしい選手との評価が高い。目立つほど短くバットを持つのが特徴的である。手が下がらないように、余った柄の途中にテープをグルグル巻いてストッパーにしている。
野村克也監督は非常に重宝しており、西武を戦力外となった同ポジションで同じプレースタイルである辻発彦をヤクルトに移籍させて土橋に勉強させ、主力打者の欠場時には4番を打たせたこともあった。1995年にリーグ優勝した際には、「土橋は裏MVPだ」と最大級の賛辞を送っている(実際にMVPを受賞したのはトーマス・オマリー)。
野村が広沢克己、池山隆寛、飯田哲也といった当時のレギュラークラスの選手を何度となく叱責したのに対し、こと土橋に関してはほとんど叱ったことがないと言われるほど強い信頼をおいており、「ID野球の優等生」とも呼ばれた。
その風貌、言動、行動から野村に「哲学者」と命名された。
読売ジャイアンツの上原浩治に「最も投げにくい選手」と言わしめたこともある。
中日ドラゴンズの山本昌にその優れたバットコントロールでなかなか打ち取れない土橋を「顔を見るのも嫌だった時期がある」と絶賛された。
ハマの大魔神こと佐々木主浩に引導を渡したことでも印象深い選手である。2004年8月8日の横浜戦で岩村、古田と共に9回表に三者連続ホームランを放ち、佐々木のその後の登板機会を奪う。2005年シーズンでも4月21日の横浜戦9回裏に佐々木からサヨナラ勝ちとなるタイムリーヒットを打つ。救援失敗が続いた佐々木はこの試合を最後に二軍落ちし、8月9日の巨人戦で事実上の引退登板(1/3回)をした後マウンドから姿を消した。
高校時代はコンタクトレンズ着用していた。
入団以来、古田と同様にメガネがトレードマークの時代があったが、2000年オフにレーシック(視力矯正手術)をし同僚の稲葉篤紀にも紹介、メガネを外した。
ヤクルトファンを公言している村上春樹は、なかでも土橋選手を贔屓にしていた。「どば」で「夢のサーフシティー土橋選手」と変換されるよう単語登録することを(もちろん冗談として)勧めている。「夢のサーフシティー」は本の題名にもなっている。
2000年と2001年は規定打席に到達したが規定打席達成者の中で一番打率が低かった(規定打席最下位)。
略歴
高校時代は印旛高校に在学。高校3年の夏、千葉県大会決勝で飯田哲也を擁する拓大紅陵高校に敗れ甲子園出場を逃す。
プロ時代のプレースタイルからは想像も出来ないが、この時彼が記録した1大会5本の本塁打は現在も千葉県大会の1大会最多本塁打記録である。
1987年 ドラフト2位でヤクルトに入団。