喜多村 直寛(きたむら なおひろ、文化元年(1804年) - 明治9年(1876年)12月9日)は、江戸時代末期の幕府医官。名は直寛、号は栲窓(こうそう)など多数、通称は安斎、安正。幕府医学館考証派の重鎮。
代々幕府に仕えた医家・喜多村家の第八代にあたる。寄合医師喜多村槐園の長男。天保2年(1831年)父の隠居を受け、家を継ぐ。天保年中、医学館で講書を務めて褒美を与えられている。嘉永2年(1849年)12月16日法眼に叙せられる。多紀元堅らとともに医学館で指導的な役割を果たした。安政5年(1858年)7月25日、子・安貞に家を譲り隠居。明治9年(1876年)没し、浅草称福寺に葬る。 著作には多くの医書のほか、随筆「五月雨草紙」がある。栗本鋤雲は実弟。
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更新日時:2008年8月17日(日)20:03
取得日時:2008/10/08 06:43