呉昌碩
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晩年の呉昌碩

呉 昌碩(ご しょうせき、簡体字:?昌?、繁体字:?昌碩、ピンイン:Wu Ch?ngshuo、1844年9月12日 - 1927年11月29日)は中国清朝末期から近代にかけて活躍した画家書家篆刻家。清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛され、中国近代でもっとも優れた芸術家と評価が高い。

は俊卿、をはじめ香圃、中年以降に昌碩とする。別字に蒼石、倉石、倉碩。に缶廬(フロ)、苦鉄、破荷、大聾、老蒼、石尊者、石人子、石敢当、破荷亭長、蕪青亭長、五湖印丐など。
目次

1 生涯

2 作風と業績

3 門弟

4 関連項目

5 参考文献

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生涯『牡丹水仙図』 呉昌碩筆

浙江省安吉県?呉村(現 浙江省湖州市)に生まれる。曽祖父、祖父、伯父、父のみなが郷試に及第して挙人となるエリート家系だった。父の呉辛甲は私塾教師であった。幼少の頃、父に篆刻を学んだが家計が苦しいために印材を調達できず、レンガに釘で文字を彫るなどした。このころからその才能の片鱗を示していたという。生まれる4年前にはアヘン戦争が勃発し、清朝が斜陽を迎えつつあった時代であったが16歳までは安定した生活を送り、塾に通い古文や篆刻を学ぶ。17歳のとき、太平天国の乱が起き、戦火を逃れるため避難生活を余儀なくされ、湖北省安徽省などを5年間彷徨った。この間に弟と妹が相次いで餓死。また昌碩の母の面倒を看るために故郷に残っていた許嫁の章夫人をも失うという悲劇を体験。

しばらく学問に励み、22歳で清朝官僚を経験するが、25歳になると幕客(高級官僚の私設秘書)となり各地に仕え放浪する。兪曲園に就いて訓詁学修辞学を学ぶ。29歳のとき、杭州蘇州上海などに遊学。蘇州では師友の楊?に就いての研鑽に励んだ。その他に呉痩緑(山)に篆隷篆刻の法を学び、施浴升(旭臣)に詩法を受け、施補華(均甫)・譚献(仲修)らに詩作の啓発を受けている。また収蔵家として有名な呉雲・呉大澂・潘祖陰・沈汝瑾との交流により鑑賞眼を高めている。

施氏と結婚後、上海にて棲み、や篆刻を売って生計を立てたが生活は苦しかった。1894年日清戦争が始まるとわずかな期間江蘇省安東県の知県(知事)を務めるもわずか一ヶ月で致仕する。その後、50歳を過ぎて著名な芸術家の任伯年から本格的に画を学ぶ。この頃、上海の富裕層が呉昌碩の文人画を好んで買うようになり画名が高まった。やがて書や篆刻も高値で取引されるようになる。晩年には張熊・蒲華・胡遠(公寿)・康有為などとも交わった。

1903年、葉銘、丁仁・・呉隠らと西湖湖畔に西?印社を設立し初代社長となる。以降、上海を中心に活躍。1927年、中風が悪化し病没。享年84。


作風と業績呉昌碩 臨石鼓文 1926年

昌碩は特に篆刻の評価が高く、はじめ浙派に学び、ついでケ派の影響を受け、さらに石鼓文などの研究を通して独自の刻風を生み出した。辛亥革命以降人気が急激にあがり日本でも日下部鳴鶴犬養毅などが彼の篆刻を競って買い求めている。篆刻家の河井?廬は彼を敬慕してついに西?印社に入社した。

画はの徐渭や清初の八大山人石濤らから多くを吸収し、気品の有る個性的な画風を確立。揚州八怪趙之謙らも参考としている。牡丹などの花卉画を得意とした。

書は代の石鼓文に基づき篆書に新様式を確立した。また隷書楷書にも優れ狂草までも書いた。

詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛され、中国近代でもっとも優れた芸術家となった。斉白石は彼の芸術に心服している。

また西?印社では金石学を研究する一方、文物の収集や保存、出版事業など中国の文化芸術の称揚に大きく貢献した。


門弟

王一亭


関連項目

中国の書道史

中国の書家一覧


参考文献

王家誠著『呉昌碩伝』二玄社 ISBN 4544010586

呉長ぎょう著『わが祖父呉昌碩』 東方書店 ISBN 4497902854

松村茂樹編『呉昌碩談論 文人と芸術家の間』柳原出版 ISBN 4840930163
カテゴリ: 清朝の人物 | 中華民国の人物 | 中国の篆刻家 | 中国の能書家 | 中国の文人 | 中国の美術家 | 1844年生 | 1927年没

更新日時:2008年11月2日(日)11:47
取得日時:2008/11/12 11:30


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki