台湾海峡危機
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台湾海峡

台湾海峡危機(たいわんかいきょうきき)は1950年代から1960年代にかけて中華人民共和国中華民国台湾)の間での軍事的緊張が高まった事件の総称。3度にわたり緊張が高まったがアメリカの介入などにより全面戦争に発展することはなかった。

なお1995年から1996年にかけて、台湾総統選挙に伴い発生した軍事的緊張に関しては台湾海峡ミサイル危機と称されている。
目次

1 第一次台湾海峡危機(1954年 - 1955年)

2 第二次台湾海峡危機(1958年)

3 第三次台湾海峡危機(1962年)

4 関連項目

5 参考資料

6 備考

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第一次台湾海峡危機(1954年 - 1955年)

詳細は一江山島戦役、大陳島撤退作戦をそれぞれ参照

1954年9月3日中国人民解放軍金門島の守備に当たっていた台湾軍に対し砲撃を行った。1955年1月18日には解放軍華東軍区部隊が軍区参謀長張愛萍の指揮の下、一江山島を攻撃、陸海空の共同作戦により午後5時30分に一江山島は解放軍により占拠され、台湾軍の指揮官である王生明は手榴弾により自決している。

一江山島を失った台湾側は付近の大陳島の防衛は困難と判断、2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍と中華民国海軍の共同作戦により大陳島撤退作戦が実施され、淅江省の拠点を放棄したことで事態は収束を迎えた。


第二次台湾海峡危機(1958年)

詳細は金門砲戦を参照

1958年8月23日中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始、44日間に50万発もの砲撃を加え、金門防衛部副指令官である吉星文、趙家驤、章傑などがこの砲撃で戦死している。この砲撃に対し台湾側は9月11日に廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。この武力衝突でアメリカは台湾の支持を表明、9月22日にはアメリカが提供した8インチ砲により中国側への砲撃を開始、また金門への補給作戦を実施し、中国による金門の海上封鎖は失敗、台湾は金門地区の防衛に成功している。


第三次台湾海峡危機(1962年)

詳細は国光計画を参照

1962年大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手した[1][2]。具体的に政府及び軍部に大陸反攻のための組織を設置、同時にアメリカの支持を取り付けようとしたが、全面戦争に発展することを恐れたアメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった[3]

その後は1965年に発生した偶発的な東引海戦、東山海戦争、烏?海戦を除き両岸間での戦闘は発生していない[4]


関連項目

国共内戦

台湾問題

台湾海峡

中華民国国軍

中国人民解放軍

米華相互防衛条約

両岸関係史

台湾海峡ミサイル危機


参考資料

林正義:「 ⇒南海及台海安全研究的観察

張淑雅「 ⇒Nancy Bernkopf Tucker, Taiwan, Hong Kong, and the United States, 1945~1992: Uncertain Friendship


備考^蒋介石侍衛長出書 披露62年反攻大陸歴史,《新浪網》
^港刊:台軍新書掲秘蒋介石当年「反攻大陸」計画,《人民網》
^台軍方公?50年前反攻大陸的絶密“国光計画”,《中華網》
^八六海戦??成功的対台海上殲滅戦,《人民網》
カテゴリ: 戦後台湾 | 台湾の政治

更新日時:2008年5月25日(日)17:08
取得日時:2008/10/06 19:20


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担当:Mamenoki