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台湾国民政府(たいわんこくみんせいふ)は、1949年に崩壊状態に陥った南京国民政府を、蒋介石が台湾に移転して再編成したことによって成立した中華民国の政府を指す呼称である。正式な名称ではない。
中国共産軍が中華民国の首都・南京を制圧した後、南京国民政府は崩壊状態に陥った。しかし、その際に南京国民政府の前総統・蒋介石が崩壊状態にある南京国民政府を指導した為、国民政府は広州、重慶、成都を経た上で台湾に移転することに成功した。その後、蒋介石は南京国民政府を再組織した上で、翌1950年1月に総統職に復職し、台湾国民政府の活動が本格的に開始された。この過程で、台湾には全域に戒厳令が敷かれ、台湾住民は政府による政治的抑圧を1987年迄うけ続ける事となった。
台湾国民政府は、中華人民共和国の成立を共産党の「反乱」と定義し、武力による大陸部の領土奪還(大陸反攻)を目指した。その為に蒋介石は政府の統治が及ぶ範囲で戒厳令を敷き、政府・中国国民党に反対する人々を投獄するなどの人権侵害を行なう一方で、国内の計画的な経済建設に着手して国力を蓄積していった。同時に、台湾国民政府は「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」としての国際的地位を主張し、中華人民共和国と「中国を統治する国家」という国際的地位を巡って対立し続けた。その際に、台湾国民政府と中華人民共和国政府は、「中国を統治する国家」としての観点から、相手国が支配している領土の領有権を互いに主張しあった為、両国の間では台湾海峡を挟んだ軍事的緊張が今なお続いている(台湾問題を参照)。
蒋介石は、国際社会における「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」としての地位を維持する事に腐心しており、大幅に譲歩をした上で日本との平和条約を締結する一方で、中華人民共和国と国交を締結した国とは即座に国交を断絶するという「漢賊不両立」の政策を採ってきた。だが、1971年に国連総会で決議された2758号決議(「国府追放・北京政府招請」のアルバニア案が基)によって、国際連合での「中国」の代表権が中華民国から中華人民共和国へと移ることとなった。この事に伴い、日本やアメリカ等は台湾国民政府に対し、「台湾」の名で国連に留まるよう説得したが、例に漏れず「漢賊不両立」の言い分の元に拒否し、台湾国民政府は国連から脱退する事を宣言した。その事から、台湾国民政府は「中国を統治する国家」として国際的に承認されなくなり、1972年の日中国交正常化に伴う日華平和条約の破棄によって、日本との外交関係を失うなど、国際的な孤立状況に段々と陥る事となった。
また、蒋介石は「大陸反攻」と共に「反共」を国是とし、東アジアにおける「反共の砦」としての地位をアメリカに認めてもらうことで、台湾国民政府の「中国を統治する国家」としての存在を持続させようとした。だが、アメリカは「反共の砦」としての存在の重要性を認識して軍事・経済的支援は行なっていたものの、東アジアの地域情勢を混乱させる「大陸反攻」の実施には断じて反対していた。その為に、蒋介石は、「大陸反攻」を実施する好機をうかがっていたものの、国際環境の影響からそれを実施する事なく1975年にこの世を去った。
蒋介石の死後、彼の長男である蒋経国が総統職に就いたが、台湾国民政府は1979年のアメリカとの外交関係の喪失によって一層国際的な孤立を深めていた。その為に、台湾国民政府は経済的な実利を得ることで国際的に生存していく道を選択し、日本やアメリカなどとの経済交易をさせることで外貨の獲得に力を入れるようになった。一方、国内では国民党による独裁政治に対する反発が徐々に強まり、アメリカからの圧力もあった為、蒋経国は1987年以降、台湾国民政府の統治地域に出されていた戒厳令を地域別に順次解除していった。その結果、国内は言論・結社・言語の自由が保障され、国民党以外の政党が合法的に誕生するようになった。
1988年の蒋経国の死去後、副総統であった李登輝が総統に就任し(後に中国国民党主席にも就任)、台湾国民政府の民主化を本格的に推し進めていった。その帰結が1996年に実施された中華民国史上初めての国民の直接選挙による正副総統の選出であるが、これは中華民国の政府が「中国全土を統治する政府」から「実効支配地域を代表する政府」へと事実上変化し、同時に1928年から続いてきた国民党の一党独裁体制による国民政府が消滅したことを示していた。