古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42)8月11日 - 1989年(平成元)8月18日)は、作曲家。本名は古關 勇治。従五位勲三等瑞宝章、紫綬褒章受勲受章。
目次
1 概要
2 略歴
2.1 幼少期
2.2 青少年期
2.3 コロムビア専属へ
2.4 戦中?戦後
2.5 晩年
3 主な作品
3.1 戦前?戦中期
3.2 戦後
3.3 映画音楽
3.4 その他
4 著書
5 参考文献
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
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福島に住みながら仙台に通い、金須嘉之進に師事[要出典]して、1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家。
それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。クラシック畑からポピュラー畑に転身し、多数の軍歌、歌謡曲、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、大阪(阪神)タイガースの歌(「六甲おろし」)、読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、東京五輪のオリンピックマーチなどの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ[1]、和製スーザと呼ばれる。
気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。
福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に生まれる。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。裕而は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって裕而とともに数々の名曲を世に送り出すこととなる。
1916年(大正5)、裕而7歳、福島県師範学校附属小学校へ入学。担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽指導に力を入れていた。裕而は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って裕而に作曲を依頼してくるようになる。こうして子供の頃から作曲することに親しんでいく。
1922年(大正11)、裕而13歳、音楽家の多い旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に入学。商業学校に入ったのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学で作曲法を勉強し続けていた。ある時、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、裕而が書き溜めていた曲を合奏要に編曲して大勢で演奏することになった。初めて自分の作品が披露された出来事であった。[2]。また、在学中に家業の呉服店が倒産する。
学校を卒業する頃、福島ハーモニカーソサエティーに入団。当時、日本でも有数のハーモニカバンドであった。裕而は作曲・編曲・指揮を担当。この頃、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。ここで裕而は初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。傾倒したのは、リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』とストラヴィンスキーの『火の鳥』、ドビュッシー、ムソルグスキー等である。このレコードコンサートには頻繁に通っていたという[3]。
卒業後、川俣銀行に勤務。この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。[4]古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局に記念番組に出演する。この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していた金須嘉之進に師事[要出典]した。