古墳(こふん)とは、一般には墳丘を持つ古い墓のことである。古代の東洋では位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。 日本史では、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼び、それ以外の時代につくられた墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んで区別している。
目次
1 古墳の概要
1.1 形・形状
1.1.1 古墳の形式一覧
1.2 埋葬施設
1.3 棺
2 薄葬と厚葬
2.1 薄葬令
3 東アジアで
4 課題
5 古墳の名前
6 ゴーランドの研究
7 関連項目
8 外部リンク
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松本豊胤によるとため池造成や水田経営を積極的に進めた豪族たちがその墓所である古墳を開発した地域を望む場所に造営していったとしている。古墳は規模や化粧方法の違いとともにその平面形状によってと、さらに埋葬の中心施設である主体部の構造や形態によって細かく分類編年されている。墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める版築工法で築成されるものも多いこと、こうした工法は飛鳥や奈良時代に大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明している。
日本の古墳には、基本的な形の円墳・方墳をはじめ、八角墳(天武・持統天皇陵)・双方中円墳(櫛山古墳・楯築古墳)などの種類がある。また、前方後円墳・前方後方墳・双円墳・双方墳などの山が二つある古墳もある。主要な古墳は、山が二つあるタイプの古墳であることが多い。死者が葬られる埋葬施設には、様々な形状が見られる。 前方後円墳の代表的な古墳は、大阪府堺市の大山(大仙)古墳である。
古墳の形式一覧
前方後円墳
前方後方墳
双方中円墳
方墳
上円下方墳
円墳
帆立貝式古墳
古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。
竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はない。竪穴式石槨、粘土槨、箱式石棺、木棺直葬などがある。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものである。古墳時代前期から中期に盛行する。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされる。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行した。箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので縄文時代以来の埋葬法である。木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設をつくらずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法である。
横穴式系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が作られる。横穴式石室、横口式石槨などがある。横穴式石室は、通路である羨道(せんどう)部と埋葬用の空間である玄室(げんしつ)部を持つ。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを両袖式、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを片袖式と呼ぶ。玄室内に安置される棺は、石棺・木棺・乾漆棺など様々である。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれるが、それを空ければ追葬が可能であった。古墳時代後期以降に盛行する。横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られる。
古墳時代には、死者を棺に入れて埋葬した。棺の材料によって、木棺、石棺、陶棺などがある。
木棺のうち刳りぬき式のものは、巨木を縦に二つに割って、それぞれ内部を刳りぬき、蓋と身とが作られたものと考えられ、「割竹式木棺」と呼び習わされている。しかし、巨木を二つに割るというが、竹を二つに割るように簡単にはいかないので用語として適切かどうかを指摘する向きもある。
つぎに「組合式」といわれる木棺は、蓋、底、左右の側板、計四枚の長方形の板と、前後の方形の小口板、時には別に仕切り板が付くこともあるが、二枚とを組み合わせて作った。
中国には、埋葬に関して薄葬と厚葬という二つの対立する考え方があった。その考え方の違いの根底には異なった死生観が存在していた。墳丘を造っているかどうかで、薄葬(はくそう)か厚葬(こうそう)かの違いを区別することができる。つまり、死後、墓とした土地を永久に占有できるかどうかで区別する。
646年(大化2年)に出された詔は、長文であり、内容から4部に分けられるが、その第一に述べられているのが、この「薄葬の詔」である。初めの部分は制定の意義を述べている。中国の文献を適当に混ぜ合わせて作文している。後半は、葬制の内容を具体的に記している。従来の墓の規模を遙かに縮小し、簡素化している。そこで一般にこの葬制を「薄葬制」という。この法令が出された背景には、「公地公民制」と関わりがあるのではないかという説がある。
「孝徳天皇大化二年三月癸亥朔
甲申、詔日、朕聞、西土之君、戒其民日、古之葬者、因高爲墓。不封不樹。