一般的に、古代ローマ支配下以前のギリシアを古代ギリシア(こだいギリシア)と呼ぶ。短期間に文明が発達し、東西の文明に大きな影響を与えた。
目次
1 ギリシア文明の発祥
2 ギリシアの領域
3 ポリスの成立
4 ポリスの興亡
5 ヘレニズム時代
6 古代ギリシア人の共有文化
7 古代ギリシア人の経済
7.1 農業
//
紀元前2600年ころ、小アジアのトロイア周辺に青銅器文明を持つトロイア文明が栄え、紀元前2000年ころには線文字Aを持つクレタ文明がクレタ島のクノッソスを中心に興る。さらに紀元前1500年ころに線文字Bを持つミケーネ文明がペロポネソス半島のミケーネ・ティリンスを中心に栄えた。
その後、3派のギリシア人が北方から南下した。紀元前2000年ころイオニア人がエーゲ海北部や小アジア西岸に住み着き、紀元前1400年ころアカイア人がペロポネソス半島からエーゲ海に進出しクレタ文明やミケーネ文明を滅ぼした。さらに紀元前1200年ころにドーリア人がペロポネソス半島北方から南下しアカイア人の領域に侵入した。
ギリシアの都市国家群(ポリス)は、紀元前800年末には現在のギリシャ西南部、クレタ島を含むエーゲ海の島々、アナトリア半島の西海岸に広がっていた。ギリシア人は人口の増加、交易、貴族集団同士の対立などが要因となって地中海世界全体に植民を進めた。紀元前500年末までには西から現在のスペインアンダルシア州のマイケケ、同バレンシア州のヘメロスコペウム(現在のデニア)、カタルーニャ州のエンポリオン、フランスではエロー県のアガテ、ブーシュ=デュ=ローヌ県のマッシリア(マルセイユ)、ヴァール県のアテノポリス、アルプ=マリティーム県のニカイア(ニース)に広がっていた。
第二の本拠地と言えるほどの規模に達していたのはイタリア南部とシチリア島である。イタリア南部のギリシヤ植民都市の一部は19世紀に至るまでコムーネとして残り、ギリシア語を話す住民による生活が続いていた。
このほか、チュニジアのキュニプス、リビアのキュレネとアポロニア、エジプトのナウクラティス、クレタ島北部のほか、アナトリア半島北岸を含む黒海沿岸全域に植民市を築いていた。例えば現在のグルジアに位置するトリグリト(ガグラ)がある。
スペインのマイケケは周囲をフェニキアの入植地に囲まれ、キニュプスやシチリア島、キプロス島でもフェニキアと隣接しているものの、それ以外の土地では他のどのような勢力とも競合していなかった。
ギリシア人による主な交易品は黒海の穀物とエトルリアからもたらされたスズである。
しばらく暗黒時代と呼ばれる文化的には不毛の時代が続いたが、紀元前8世紀ころに古代ギリシア文明が急速に開花し ポリス (都市国家)が成立するようになった。ポリスは大小さまざまで、一般的に1500から2500平方キロメートルの領土を持ち、市民と呼ばれる自由民男子とその家族3万から10万人と、奴隷など5万から10万人の人口を抱えていた。諸ポリスは、古代マケドニアによる覇権が確立する紀元前338年まで統一されることはなく、互いに同盟を結んだり戦ったりして分立した。また天災や人口の増加、交通の要地の確保などのためから、ポリスから殖民団を作って新たに植民市を建てることも行われた。天災でポリスが滅び、住民全部が移民して新たなポリスを築いたマッシリアやエレアの例もある。
地域や風土によってポリスの政体は多様であり、王政、貴族を中心とする寡頭政、全市民参加の直接民主政を採用するポリスがあった。また正統な王の家系以外から出た個人が権力を握って世襲する場合があり、これは僭主政と呼ばれた。有力なポリスであったアテナイ、スパルタ、コリントス、テーバイは、自分たちの政体を他に押しつけようともした。
ポリスの興亡ペルシア戦争の状況 ペルシャのマルドニウスによる侵攻(オレンジ線、紀元前492年)、ダティスの侵攻(緑線、紀元前490年)、クセルクセス1世の侵攻(黄線、紀元前480年)
丘陵地帯の多いギリシアでは重装歩兵による密集戦術が発達していた。ポリス間の抗争が続くにつれ徐々に戦術が洗練され、さらに重装歩兵の担い手である市民の政治的地位が向上し、市民共同体としての意識が高まったことで、戦術面のみならず精神的にも強力な軍隊となった。
こうした中で発生したペルシャ戦争でその戦力の真価が遺憾なく発揮された。