双十協定(そうじゅうきょうてい)とは、日中戦争の戦闘終結後、中国国民党と中国共産党とが締結した協定。両党が分裂している局面を終結させ、戦後中国に民主的な政権を樹立させることを目的に発表した会談の要旨で、1945年10月10日に調印されたことから双十協定と呼ばれる。正式名称は政府と中共代表の会談紀要(政府与中共代表会談紀要)。
日中戦争終戦後、中国の平和的発展を脅かす外的要因が減少しつつあったことから、抗日という同一目標に向け共同作戦を採用したことで、戦争中には表面化していなかった中国共産党と中国国民党との間に政治矛盾が浮上してきた。東北、華北、中原の各地区では、国共両党の軍隊が都市統治権と戦略物資の接収をめぐって争いが展開されていた。その頃、ソ連は東北地区にあった元日本軍の兵器と戦略物資を獲得しており、これが林彪が率いる東北解放軍に流れていた。一方、国民党はアメリカから軍事援助を受け、アメリカ海空軍によって国民革命軍が華北、東北地方に展開され、両党は一部の地区で散発的な衝突を繰り返していた。
1945年8月、蒋介石は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。
この呼びかけに応じた毛沢東と周恩来、王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、中国共産党の代表としして中国国民党の代表である王世杰、張治中、邵力子と会談を行った。
会談開催前、両党は協議期間中の停戦を発表していたが、実際には協議における優位性をより確保するために、両党の軍隊は戦略的要地の奪い合いを繰り返し、協議期間中も戦火がやむことは無かった。
協議を通して共産党は抗日拠点の独立主権を主張し続けたが、海南省、浙江省、河南省一帯に分布する13ヶ所の拠点を国民党に提供することに同意した。また、これらの拠点については、国民党の接収後に両党のイデオロギーを結合させた「新民主主義」の構想を掲げることで、両党の観念形態の対立を和らげようとした。一方国民党も、1937年の日中戦争勃発前に既に共産党が保有していた延安の革命根拠地の保持を変えなかったが、その他の地区は取り戻すことを主張した。さらに、共産党の軍隊を国民政府の指導下にある国民革命軍に組み入れて統一的に指揮することを要求した。共産党は、国民党だけがコントロールしている政府に軍隊を渡すことを拒絶したが、人員の削減はできるとし、真に民主的な政府を成立させた後に、軍を渡すことを求めた。「双十協定」
43日間にわたる協議を経て、双方は10月10日に「政府と中共代表の会談紀要」に署名した。その日付から「双十協定」と呼ばれている。
主な内容は、
平和的な建国の基本方針を承認し、一切の紛争は対話によって解決することに同意する。
長期に渡って協力し、あくまで内戦を避け、独立し自由で富強な新しい中国を建設し、徹底的な三民主義を実行する。
訓政体制を速やかに終わらせ、憲政を実施する。
速やかに政治協議会議を開き、国民大会やその他の問題の協議を行った後に新憲法を新たに制定する。
中国共産党は、蒋介石と南京国民政府が中国の合法的な指導者の地位にあることを承認する。
しかしこの内容では、実質的に両党の間の核心的な矛盾に対し何ら解決が行われておらず、分裂状態は変化は無かった。この政治協議が閉幕すると、短い平和は破られ、第三次国共内戦が勃発した。 カテゴリ: 中華人民共和国の歴史 | 中華民国の政治 | 20世紀の中国史 | 中国の戦争 | 内戦
更新日時:2008年5月25日(日)16:42
取得日時:2008/07/25 10:57