占田・課田制(せんでんかでんせい)とは中国西晋代に行われた土地制度。
目次
1 概要
2 歴史
3 研究
3.1 史料
3.2 論点
3.2.1 土地の給付及び還受の存在
3.2.2 占田・課田の対象
3.2.2.1 A説
3.2.2.2 B-1説
3.2.2.3 B-2説
3.2.2.4 B-3説
3.2.3 女は則ち課さずの意味
3.2.4 課税に付いて
3.3 占田・課田制の歴史的位置付け、占田・課田制研究の歴史学的位置付け
4 表
4.1 占田・給客額
4.2 論点のまとめ
5 脚注
6 参考文献
6.1 概説書
6.2 日本
6.3 中国
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占田・課田制に関しては史料が極めて少なく、その制度内容・実態に関しては判然としない。現在の所、史料から確実なこととしては
16歳から60歳までを正丁とし、13-15歳及び61-65歳を次丁とする。
男子一人に占田70畝(約2.4ヘクタール)、女子には30畝(約1.05ヘクタール)。丁男(ていだん。正丁の男)には課田50畝(約1.75ヘクタール)、丁女20畝(約0.7ヘクタール)、次丁男には25畝(約0.7ヘクタール)。
官吏に対しては官品に応じて一品官で50頃(1頃は100畝=約3.5ヘクタール)、以後官品が下がるごとに5頃ずつ下がり、最低の九品官で10頃の占田。
課田50畝に対して戸ごとに戸調として年に絹3匹(72.3m)・綿3斤(667.2g)を収める。次丁男および女が戸主の戸はこの半分。
などと解る。
この中の「占田」「課田」とは何かなどの諸点に付いて日本・中国の史学界に於いて非常に多岐に渡る研究が出されている。それらについて研究の節で日本に於ける研究を中心にして記述する。
魏では創始者曹操により屯田制が行われていた。屯田制は最前線などに駐留する兵士に耕作させる軍屯と土地を失った農民に対して半強制的に耕作させる民屯に分かれる。屯田民は5、6割に及ぶ高税率を課され、その収入は曹操軍団の経済的基盤となっていた。またこれと平行して自ら私有する土地を耕す一般民に対しては田租として畝ごとに4升(約0.8l)を課し、またそれまでの人頭税を止めて戸ごとに徴収する戸調制を開始、戸ごとに絹二匹(約48.2m)・綿二斤(約445.4g)を課した。
しかし263年(景元四年)に蜀を滅ぼし、徐々に屯田の必要性が薄れ、翌264年(咸熙元年)より屯田の廃止が進められ、武帝が禅譲を受けて皇帝となり、西晋が立った翌年の266年(泰始二年)に廃止された。武帝はそれと共に268年(泰始四年)には『泰始律令』を発布し、国家体制を整えていった。
280年(太康元年)に残る呉も滅ぼし、中国を統一した武帝は更に「戸調之式」を発布し、占田・課田制を開始した。しかし占田・課田制は実質的な効果はほとんど挙げられず、また武帝自身が統一後は堕落し、西晋は武帝死後の300年(永康元年)に起った八王の乱により西晋は国力を大幅に減退させる。この時期には最早、占田・課田制は有名無実と成っていたと考えられる。
占田・課田制は西晋の滅亡と共に消滅し、東晋および南朝に於いては受け継がれなかった[1]。しかし後に華北を統一した北魏に於いて均田制が施行され、占田・課田制はこの前身となった[2]。
前述の通り、占田・課田制に付いての史料は極めて少なく、その内容に関して解ることは少ない。それにも拘らず多くの研究がなされているのは一重に占田・課田制が均田制の先駆として評価されることにあるだろう。均田制は唐朝の根幹制度とされ、また歴史学上での区分問題[3]でも最重要に位置づけられ、その均田制を理解するために占田・課田制の理解が必要と考えられたのである。
占田・課田制を知るための史料はまず『晋書』食貨志にある「戸調之式」と呼ばれる一連の文章である。戸調とは戸ごとに徴収される調のことであり、式とは令に関する細則のことである。以下にその全文を記す[4]。これとほぼ同じ文章が『通典』にあるが、2の「其外丁男」が「其丁男」に、4の「遠夷の課田せざる者」が「課田せざる者」になっている。