南部鉄器(なんぶてっき)は、岩手県盛岡市、奥州市で作られる鉄器。北上川沿いの両地域では、鉄などの材料が豊富にある。1975年には伝統工芸品に指定された。
目次
1 歴史
1.1 盛岡の南部鉄器
1.1.1 有坂家
1.1.2 鈴木家
1.1.3 藤田家
1.1.4 小泉家
1.2 水沢の南部鉄器
1.3 明治・大正の南部鉄器
1.4 昭和・平成の南部鉄器
2 製造される鉄器の種類
3 製造手順
4 記録・その他情報
5 関連項目
6 外部リンク
//
南部鉄器と総称されているが、盛岡の南部鉄器と、水沢の南部鉄器の歴史は異なる(明治・大正の南部鉄器以降は、共通で著す)。
盛岡の鋳物は、始まりが慶長年間(1596年-1615年)の盛岡藩主南部氏が築城の頃といわれている。それからは、歴代藩主庇護の下、育まれてきた。盛岡の南部鉄器の歴史は、有坂家、鈴木家、藤田家、釜師小泉家の歴史とも言える。藩の鋳物の受注はこの4家がほぼ担っていたためである。
初代は京都の人で、7代目のとき甲州に、13代目ときに、盛岡に移住してきた。
甲州から1641年(寛永18年)に、藩に召し抱えられた鈴木縫殿家綱を祖とする。製造したのは梵鐘や燈籠などの大作が知られていて、幕末には大砲も製造している。1646年(正保3年)には盛岡城の時鐘も製造しており、当時、藩随一の鋳物師だったことがうかがえる。これは、後に花巻城に移されるが今も現存している。
甲州の出で、2代目から盛岡に移住。鍋類を主に製造し、その品質の良さから「鍋善」と呼ばれ、後に藩に召し抱えられた。
藩主が茶の湯を好んだことから、1659年(万治2年)に召し抱えられ、茶釜を製作する。祖は京都出身の小泉五郎七清行といわれている。本業は茶釜だったが、現在も残る1679年(延宝7年)の時鐘を始めとする多くの製品に名を残している。このことから、藩から重用されていたと考えられる。
また三代仁左衛門は南部鉄瓶の創始者と伝えられ、四代仁左衛門は、大砲鋳造の技術を江戸で学んだ。
平安後期に、豊田館(とよたのたち、藤原経清の居館。場所には諸説あるが、豊田館跡擬定地として、奥州市江刺区岩谷堂字下苗代沢が挙げられている)にいた藤原清衡が近江国(滋賀県)より鋳物師を招いて始めた。これが、次第に南下して水沢に伝わったと語り継がれている。中世の鋳物師は「歩き筋」と呼ばれるように、必要に応じて地域を転々することが常である。需要主である清衡が平泉に移ると、彼らも一緒に移ったが、一部が残り鋳造を続けた、と言われているが根拠はない。
しかし、この時期に平泉に鋳物師がいたことは疑いもなく、奥州藤原氏の時代の遺跡からは鋳型が出土している。藤原氏以降は、日用品を鋳造し、細々と継承していた。
水沢に鋳物師が定住するようになったのは室町時代初期で、黒脇千葉家がその始めだったといわれている。
そうして、江戸初期には地域に鋳物業が定着していく。1683年(天和3年)に鋳物業を興した及川喜右衛門光弘という人が、中興の祖と讃えられている。以後、仙台藩の庇護を受け、鉄鍋、鉄釜を中心に、仏具なども生産し、幕末には大砲も鋳造している。
盛岡、水沢とも、盛岡藩、仙台藩の庇護の下、発展してきたが、この後ろ盾が明治維新により消え去り、衰退を余儀なくされる。しかし、生産と流通の体制が整い、展覧会にて入賞するなど名声を高まると、各地からの注文が増える。さらには、1890年(明治23年)の東北本線開通と相まって(盛岡、水沢とも、これに接していた)一気に販路拡大となった。
明治末には、再び停滞気味になるが、1908年(明治41年)の皇太子(後の大正天皇)東北行啓の際、八代小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演して見せて話題を呼んだことをきっかけに、県や市を挙げての取り組みが始まる。
1914年(大正3年)には、旧盛岡藩主南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。人材育成にも貢献した。
次第に戦争の足音が聞こえ始めると、鉄の素材とその技術は兵器に利用されるようになる。戦時体制により「銑鉄物製造制限規則」が施行され、平和工作物の製造が禁止された。武器製造を第一とされ、150人いたといわれる職人のうち、わずか16人の生産しか許されないことになる。
終戦後は、アルミニウム製などの軽い製品に押され、需要は減り、衰退する。