町奉行(まちぶぎょう)とは江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠しており、遠国奉行と総称された。以下は、江戸町奉行について記述する。
目次
1 概要
2 江戸町奉行の一覧
2.1 一奉行所時代
2.2 北町奉行
2.3 中町奉行
2.4 南町奉行
3 関連
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江戸町奉行は寺社奉行・勘定奉行とあわせて三奉行と称された。他の二奉行と同様評定所の構成メンバーであり、幕政にも参与する立場であった。
管轄区域は江戸の町方のみで、面積の半分以上を占める武家地・寺社地には権限が及ばなかった。ただ寺社の門前町についてはのちに町奉行管轄に移管された。基本的に定員は2人である。初期は大名が任命され,以後は、旗本が任命された。
よく北町奉行(所)・南町奉行(所)といわれるが実際に管轄区域を二分していた訳ではなく月番制によって交互に業務を行っていた(詳しくは後述)。また、その名称にしても、奉行所所在地の位置関係によりそう呼ばれていたということであり、南北は正式な呼称ではなく公式には一律で町奉行とのみ呼ばれた。従って1つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになる。宝永4年(1707年)に本来「北町奉行所」であった常盤橋門内の役宅が一番南側の数寄屋橋門内に移転した際には、その場所ゆえに「南町奉行所」と呼ばれるようになり、従来鍛冶橋内にあった南町奉行所が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が北町奉行所となった。但し市中を巡回する廻り方同心は巡回すべき自身番を指定されておりそういった意味での管轄は存在した。しかし、この各同心が担当する自身番も、江戸市中に散在する形で割り当てられており、現今の警察の○○方面というような地域的にまとまったものではなかった。
奉行所の月番制は、民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、民事訴訟の受理以外の通常業務(職権開始の刑事訴訟を含む)は当然行われていた。また月番でない奉行所は、月番で受理し、未処理となっている訴訟の処理等も行っていた。職務は午前中は江戸城に登城して老中などへの報告や打ち合わせを行い、午後は奉行所で決裁や裁判を行なうというもので、夜遅くまで執務していた。激務で知られており在任中のまま死亡する率は有数であった。
1702年(元禄15年)閏8月 - 1719年(享保4年)1月という短い間ではあるが中町奉行所というものも設置された。設置された理由や職務内容はあまり定かではないが、南北町奉行所の補助役として設置されたとされる。
明治以降、奉行所は取り壊されてしまったが、北町(東京駅八重洲口北側付近)・南町(有楽町マリオン付近)の両奉行所が存在していたとされる場所には、今でも石碑が建っている。ただし、いずれも幕末期における奉行所の位置を指すものであり、文化2年(1812年)以後に固定化された場所に相応している。
1818年には江戸の範囲が地図上に赤い線(朱引)で正式に定められたが、同時に町奉行の管轄する範囲も黒い線(墨引)で示された。これは後の東京15区、即ち市制施行時の東京市の範囲とほぼ一致する。
初期は、北町・南町両奉行が置かれておらず、一つの奉行で成り立っており、正式な町奉行という役職ではなかったが事実上同じ働きを持っていた。正式に町奉行という官職ができたのは、北南町奉行が設置されてからである。また、途中中町奉行というものが設置されたが、わずか5代で廃止された。
一奉行所時代
天野三郎兵衛康景
神田与兵衛政高
岸助兵衛正久
板倉四郎右衛門勝重
彦坂小刑部元成(彦坂元正)
青山常陸介忠成
内藤修理亮清成
北町奉行
米津勘兵衛田政
堀式部少輔直之
酒井因幡守忠知
朝倉石見守在重
石谷左近将監貞清
村越長門守吉勝
島田出雲守守政
北條安房守氏平
川口摂津守宗恒
保田越前守宗郷
松野河内守助義
丹羽遠江守長守
中山出雲守時春
諏訪美濃守頼篤
稲生下野守正武
石河土佐守政朝
能勢肥後守頼一
依田和泉守政次
曲淵甲斐守景漸
石河土佐守政武
柳生主膳正久通
初鹿野河内守信興
小田切土佐守直年
永田備後守正道
榊原主計頭忠之
大草安房守高好
遠山左衛門尉景元
阿部遠江守正蔵
鍋島内匠頭直孝
牧野駿河守成綱
井戸対馬守覚弘
跡部甲斐守良弼
石谷因幡守穆清
小笠原長門守長常
浅野備前守長称
佐々木信濃守顕発
阿部越前守正外
都筑駿河守峯暉
池田播磨守頼方
井上信濃守清直