南漢山城(ナムハンサンソン)は、京畿道広州市、河南市、城南市に広がる南漢山にある山城。行政上の住所では広州市中部面山城里である。丙子胡乱の際、 仁祖が入城して清と対抗した場所である。1950年代に李承晩大統領によって公園化されたのち、現在、道立公園に指定され、多くの市民の訪ねる場所となった。南漢山城の守禦将台
目次
1 概要
2 城の歴史
2.1 李氏朝鮮時代以前
2.2 李氏朝鮮時代
2.3 日本統治時代
2.4 解放後から現在
3 城の自然環境
4 城の施設及び建築物
5 観光情報
5.1 祭り
5.2 料金
5.3 交通機関
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南漢山城は漢江とともに三国時代までさかのぼる。一時百済の首都・河南慰礼城と推定されたりした南漢山城は、百済の始祖温祚王が立てた城と知られているが、新羅時代に築かれた昼長城という説もある。李氏朝鮮時代の粛宗と仁祖の代に各種施設を建て城を建て増しして今日の形態を整えるようになった。しかし日本統治時代直前の1907年に日本軍によって多くの建物が破壊される痛みを経験することもあった。
1963年1月21日南漢山城の城壁が国家史跡第57号に指定され、1971年3月17日南漢山城は京畿道立公園に指定されて(第158号)、5年後の1976年7月1日管理事務所が開所されて現在に至っている。今は周辺市民たちに素晴らしい安らぎの場と同時に健康のための山登り散歩コースとしても人気を集めている。
百済始祖温祚王が南漢山城と関連付けられたのは、朝鮮初期、百済最初の首都“河南慰礼城”が南漢山城と考えたからである。『朝鮮王朝実録』、『新増東国輿地勝覧』、『大東野乗』、『練藜室記述』、『輿地図書』、『大東地志』など大部分の李氏朝鮮時代の地理関連資料は南漢山城が百済の古城だと主張している。漢城にちょうど都邑を移した朝鮮の立場で、漢城が国家の首都として相応しい所なのを強調しようとしたのである。しかし『重訂南漢志』の著者である洪敬謨だけが、柳馨遠の『?渓遂緑』を引用してこのような主張に異を唱えたが、認められることはなかった。参考に今日の学界では、最初の百済の首都である慰礼城として、松坡区にある風納土城を強く着目しているが、まだ研究中である。
南漢山城の最初の築城に対する2つ目の説は、新羅時代に築かれた昼長城という主張である。『三国史記』の記録が根拠だが、三国史記に昼長城が漢江以南の「漢山に昼長城を築いたが周囲が 4,360歩ある」という記録がされていて、漢江流域をめぐり高句麗、百済と熾烈な戦争の中だった新羅が、漢江以南に大規模な城を築く必要性も十分だったからである。当時漢山地域の山城の中でこの記録に近接した山城は南漢山城が唯一である。また李氏朝鮮時代の記録にも昼長城の城壁の長さが3,993歩(『世宗実録地理志』)や宣祖代の布帛尺では17,400尺などと記録されている距離を今日の単位に換算して計算すれば、昼長城に関する記録は似ている。仁祖当時の改築時の記録には「昔の敷地に沿って南漢山城をまた築くようにした」という記録が、昼長城が南漢山城という説を裏付けていると解釈されている。
高麗時代には特別な記録はない。ただモンゴルの高麗侵入当時1231年と1232年の2度、広州城でモンゴル軍を退けたという記録があるが(当時広州府使李世華の墓地の碑石)、広州地域に所在する山城は二聖山城と南漢山城だが、6世紀中葉に築城された二聖山城は規模が小さくて篭城専用というより海美邑城のように行政中心地の性格が強いので、上の記録にある広州城が南漢山城として推定されている。先に言及された李世華の墓誌銘には、モンゴル軍が侵攻した時、城を修理したとなっており、『高麗史』に恭愍王10年に紅巾の敵が侵攻した際、恭愍王が開京を放棄して避難の途につくと、広州周辺住民たちが皆山城に登ったという記録が高麗時代の記録の全てである。ただ(南漢山城が高麗時代の記録にある広州城という前提で)記録資料や発掘された高麗時代の遺物が少ないという点をあげて、戦争状況で一時的に使う篭城専用城だと推定している。