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南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都 南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。
中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。
なお、この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている(南京大虐殺論争を参照)。
目次
1 事件の概要
1.1 南京攻略戦
1.2 残虐行為について
1.3 報道
1.4 被害者数について
1.5 事件の背景について
2 戦争裁判
3 南京陥落までの状況
3.1 日本側
3.2 中国(中華民国)側
4 中支那方面軍の編成
5 南京大虐殺を描いた作品
6 関連項目
7 外部リンク
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1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍に対し追及を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。日本軍は、中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日、南京は陥落した。
日本軍は、南京への進撃中から諸種の残虐行為を行ったと言われている。その為、南京周辺の町村において、被害の報告が挙げられている。また、1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)。市民への虐殺市民への虐殺については、そのことを直接指示する命令書は確認できないが、当時、戦闘に参加した日本軍将兵の多くが、女性、子供を含めた市民を無差別に殺害するよう指示を受けたことの記録や証言を残している。被害者側である中国人の証言からも、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたことが多く確認できる。当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた警察官全員や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録に書き残している。捕虜・投降兵の虐殺第16師団長である中島今朝誤中将は、日記において、捕虜を取らず、殺害する方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、多くの捕虜や投降兵が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が捕虜約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は、この処置は上部組織からの命令であったことを日記に書いている。南京北部の下関では、捕虜が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報では、旅団命令によって捕虜を殺害したことが記録されている。
この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官の間で伝わっており(前者の代表的な例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表的な例としては外務省欧亜局長 石井猪太郎の日記が、夫々挙げられる)、日本の民衆の間でも流言蜚語として広まっていた(流言の伝わるルートとしては軍人が戦地から内地に宛てた手紙が挙げられる)。また、日本の外へ目を向けてみると、欧米では『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨークタイムズ』、中国では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として報道されていた。
南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、事件初期における日本軍による殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行なわれた略奪や大量殺害を船舶の無線を使って報道した。
被害者数については数千人とする説から、数十万人にのぼるとするものまで様々であり、虐殺事件の存在自体を否定する説もある。日本の研究者らは数万人程度(うち保守主義者では数百人 - 1万数千人規模説、一部に否定説)と考える人が多く、海外では数十万と捉える研究者が多い。論争については、南京大虐殺論争を参照のこと。
事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、日本軍兵士・将校の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。