十字軍(じゅうじぐん、ラテン語: ⇒cruciata [クルキアタ])とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。1096年から約200年間に渡って行われた。
広義では、直接的には聖地に関係しないレコンキスタや東欧に派遣された東方十字軍、バルト海沿岸の諸国で行われた北方十字軍、キリスト教異端に対するアルビジョワ十字軍等が含まれる。
当時の西欧のカトリック諸国側から見れば義軍であり、その戦闘は聖戦であるとされたが、実際にはイスラム諸国や同じキリスト教である正教会諸国に攻め込んだ侵略軍である。2001年になりカトリック教会のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がギリシャを訪問し過去の「十字軍」による侵略と虐殺、略奪行為について正式に謝罪した。(以下は便宜的に、主として当時のヨーロッパ側からの視点で記述する)十字軍の遠征路 8回のうち、第3回、第4回、第7回、第8回は主な遠征路が海路となっている。なお、第5回と第6回は図上に示されていない。
目次
1 概略
1.1 十字軍遠征までの経緯
1.2 第1回十字軍
1.3 第2回十字軍
1.4 第3回十字軍
1.5 第4回十字軍
1.6 第5回十字軍
1.7 第6回十字軍
1.8 第7回十字軍
1.9 第8回十字軍
2 十字軍の実態
3 その後
4 イスラム側の認識
5 十字軍の影響
6 関連項目
7 脚注
8 参考文献
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トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。この時皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。
ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。彼がフランス人に、神のために武器をとるようにと呼びかけると、人々は"Dieu le veult!"(神の御心のままに!)と答えたという。
なお、本稿では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば第5回(1218年-)を数えない説があったり、第6回(1228年-)は破門皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ十字軍)として数えない例もあった。1270年の聖王ルイの出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。
なお、回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、巡礼で聖地に到着した騎士や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも十字軍である。その他、第1回十字軍時の庶民十字軍、少年十字軍、羊飼い十字軍などの大小の民衆十字軍が起こっている(大部分は聖地にたどり着けていないが)。
詳細は第1回十字軍を参照1096年〜1099年。セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、陵辱、略奪を行いながらエルサレムを目指した。イスラム教徒の諸領主は一致団結することがなく、敗走するか戦わずして十字軍を通し、1099年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。城内に乱入したキリスト教軍はほぼ全ての市民を虐殺し、女性達を陵辱し、財宝を略奪するという蛮行にふけった。街は死体で埋まり辺りは膝まで血の海になったという。この十字軍の結果、シリアからパレスチナにかけての中東地域にエルサレム王国などいくつかの十字軍国家がつくられた。