北極海航路(北方航路、ほっきょくかいこうろ;英語:Northern Sea Route、NSR;ロシア語:Се?верный морско?й путь;ラテン文字での転記例:Severnii Morskoi Put)は、ユーラシア大陸北方(ロシア・シベリア沖)の北極海を通って大西洋側と太平洋側を結ぶ航路である。
北極海を通りヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路のうちの一つで、ヨーロッパから北西に向かい北アメリカ大陸の北を周って大西洋と太平洋を結ぶ「北西航路」と対をなす。20世紀初頭以前のヨーロッパでは、ヨーロッパから北東方向へ向かいアジアに至るために北東航路(Northeast Passage)と呼ばれていた。ロシアにおける呼称は「北方航路」であり、「Северный морской путь」の各単語の頭を採って「セヴモルプーチ」(Севморпуть;Sevmorput)と略される。
この航路の大部分は北極海で、氷に妨げられないのは年間2ヶ月のみであり、残りの期間は海氷や流氷などに覆われ航行不能となる。しかし近年、全地球的な気候変動により北極圏が温暖化し、北極海の海氷の範囲が縮小し氷結する期間も減っているため、航行可能な期間が長くなりつつある。
目次
1 歴史
1.1 ロシア北方の海路
1.2 東シベリア沖の探検
1.3 ヴェガ号の航海成功と航路の商業利用
1.4 ロシア革命後
2 港湾と航路
3 脚注
4 外部リンク
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ロシア北方の海路ウィレム・バレンツの航海。氷に閉じ込められ動けなくなった帆船バレンツの作成した北極海地図
ロシア人の北極海航路開拓への当初の動機は、経済的な理由であった。ロシアでは、大西洋と太平洋をユーラシア大陸の北方で結ぶ航路があるかもしれないという仮説が、1525年に外交官ゲラシモフによって提唱された。しかしこれより前に、白海沿岸に移住したロシア人の開拓民や商人(ポモール)が、早くとも11世紀ごろから北極海沿岸の航路の一部を探検している。16世紀から17世紀にはアルハンゲリスクからエニセイ川河口に至る航路が確立された。北極海航路の先駆的存在であるこの航路は、東の終点に当たる交易地マンガゼヤの名を採ってマンガゼヤ航路(Mangazeya seaway)とよばれており、ポモール商人たちが短い夏の間にこの航路を往復してシベリアで採取される毛皮やセイウチのキバなどを運び、アルハンゲリスクでノルウェーやイングランドやデンマークの商人たちに売った。
一方、16世紀から17世紀には、ヨーロッパ北部諸国(イギリス、オランダ、デンマーク、ノルウェー)が相次いでロシア北方の海を探検した。当時、喜望峰周りやメキシコ経由など、インドや中国とヨーロッパを結ぶ海路はスペイン・ポルトガルが押さえていたため、後発の諸国は最短距離となるはずの北極海経由の仮説上の航路を見つけようとしていた。当時の西欧の人々は、夏の数ヶ月間に沈まない太陽が北極圏を照らすことにより、北極海の氷が溶け、西欧から北極点を通って太平洋の中国やモルッカ諸島へ直行できる海路が開くと信じていた。ロシア・シベリア北方の「北東航路」探検は、北アメリカ北方の「北西航路」探検に劣らず熱心に行われ、羅針盤や天測儀など航行用器具の発達がこれを後押しした。探検は全て失敗に終わったが、この過程で北極海に浮かぶ島々が次々と発見された。
特筆すべき北東航路探検は、オランダ人航海士ウィレム・バレンツによる1596年の航海である。彼らはノルウェーの北方沖でスヴァールバル諸島とビュルネイ島を発見し、ノヴァヤゼムリャの北端を周ってカラ海に入った。しかしノヴァヤゼムリャ北東岸の越冬地で船が氷に閉じ込められ脱出できず、一行は翌年夏に船を捨てボートで南に向かった。多くはロシア本土に辿り着き生還したものの、バレンツはノヴァヤゼムリャで落命した。
またイギリスでは、1551年にセバスチャン・カボット、ヒュー・ウィロビー卿、リチャード・チャンセラーがスカンジナビア沖を通りロシアへ至る貿易路や中国へ至る北東航路開拓を目指し「新しい土地への冒険商人会社」(Company of Merchant Adventurers to New Lands)を組織した。これは1555年、最初の勅許会社「モスコヴィ会社」(ムスコヴィ会社、モスクワ会社)へと発展した。ヒュー・ウィロビー卿らは1553年に自らロシアへ向かう探検隊を組織して船出したが船団は嵐ではぐれ、ウィロビーの船は1554年にラップランド北部の湾で氷に閉じ込められ、そのまま全滅した。副官チャンセラーの船は白海からロシア本土に到着し、チャンセラーはモスクワの大公に謁見することができた。チャンセラーは1555年再度ロシアへ航海し中国への航路を探るものの、1556年にイギリスへ戻る際に乗艦が難破し落命した。