匈奴 (きょうど、Hungnu, フンヌ)は紀元前5世紀ごろから5世紀にかけて北アジアに存在した強大な遊牧民族、および、それが中核になって興した遊牧国家を指す。モンゴル高原を中心とした北アジアに一大勢力を築いた。なお、「匈奴」は中華思想的には差別的な意味合いを含む漢字音写であるため、使用を避けることもある。しかし、当時の北アジアの国名や人名などの固有名詞は、モンゴル時代以降と異なって同時代の表音文字記録を欠き、当時の原音を正確には再現できない。そのため、代替的な名称はない。
また4〜6世紀の間、東欧や地中海諸国に侵入したフン族と同族あるいは重要な集団構成要素であるとする説も有力である。
目次
1 歴史
1.1 起源
1.2 秦の時代
1.3 漢の時代
1.4 匈奴の分裂
1.5 五胡十六国時代
1.6 北魏以降
2 文化
3 政治体制
4 歴代単于
4.1 統一匈奴帝国時代
4.2 五単于並立時代
4.3 西匈奴
4.4 東匈奴
4.5 再統一時代
4.6 北匈奴
4.7 南匈奴
5 関連項目
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匈奴の民族としてはモンゴル系、テュルク系などの諸説があるが定説は無い。特定の民族の集団ではなく民族の連合体という説や、匈奴の名前は民族名ではなく政治集団の名前であるという説もある。後世の遊牧集団や遊牧政権、遊牧国家の実態から想定するに、政権の核になった中核遊牧集団の名前であると同時に、そこに他の遊牧集団や狩猟民、定住民の集団を取り込んだ複合的な遊牧国家の名前でもあったと解するのが妥当性が高そうである。
この名称の遊牧集団は、かなり早い時期からモンゴル高原に存在していたようだが、記録が無いためにはっきりとしたことは解らない。紀元前5世紀ごろからスキタイ文化を取り込んで、優れた騎馬技術と武器により周辺諸国を圧迫した。
初めて中国の史書に姿を現すのが戦国時代の終わり、紀元前3世紀の半ばごろ、趙の北に現れ、趙と交戦したと書かれている。それ以前に趙の北には三胡と呼ばれる非中華的集団がいて、度々趙と戦っていたが、匈奴とこれらの人間集団が関係あるのかは解っていない。
秦の始皇帝は蒙恬将軍に匈奴を攻めさせ、オルドス地方を平定し北へ追い返した。そして匈奴の侵入を防ぐため万里の長城を修築した。始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱が起きると秦は匈奴を抑える力が無く、再び長城付近までやってきた。
冒頓が単于になると、匈奴を圧倒していた遊牧集団の東胡を滅ぼして大勢力に成長した。さらに建国直後の前漢の劉邦の遠征軍に大勝し、匈奴の権威を漢に認めさせ有利な立場になった。更に西の月氏、北のテュルク系とおぼしき諸々の遊牧集団を討って取り込み、モンゴル高原全てを制圧した。
その後、文帝・景帝の時代には、漢は匈奴に対抗できる力を持たず、匈奴に対して献上品を送るなど低姿勢に徹していた。
しかし武帝が帝位につくと、積極的に匈奴を討つ為に動き出した。張騫を西域に出し、月氏と結んで匈奴を討たんとしたが失敗に終わった。しかしこれにより西北の状況が詳しく解り、武帝は匈奴を討つ為の作戦を立てる。武帝は匈奴を誘い出すために北の都市馬邑で偽りの反乱を起こさせ、匈奴に内通する手紙を冒頓の孫軍臣単于に出した。しかし軍臣は途中で気づき、武帝の策略は失敗に終わった。
この武帝の屈辱は衛青と霍去病と言う二人の卓越した将軍によって雪がれる。二人とも度々匈奴を討ち、大戦果をあげた。この時期、匈奴には内紛がおき、国力が充実した漢に敵し得ず北へ帰った。
宣帝の時代に後継争いで内紛が激しくなり、呼韓邪単于は内部を治めるために漢に入朝し、自ら臣と名乗った。漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせた。
前漢が滅び、新を挟んで後漢が成立すると、日逐王は漢の力を借りて今の単于を倒し、自らが単于になろうと漢に近づき、匈奴は二つに分裂した。これ以降、親漢派は南匈奴と呼ばれ、もう一方は北匈奴と呼ばれる。漢は遠征軍を出し、班超の活躍で西域を平定した。
その後、南匈奴は漢に属し、北匈奴は南匈奴と鮮卑族に圧迫されて、西に流れていった。この流れていった北匈奴が後にフン族になったという説がある。黄巾の乱後、長安から逃げ出した献帝を南匈奴の於扶羅が救った。この頃から多くの族人が長城内に移住するようになり、後の五胡十六国時代の引き金となる。
後漢が倒れ、魏が倒れ、西晋が建った後に八王の乱で中国が大混乱した状況を見て於扶羅の孫である劉淵は自ら皇帝を名乗り漢を建てた(304年)。