勝田 銀次郎(かつだ ぎんじろう 明治6年(1873年)10月1日 - 昭和27年(1952年)4月24日)は、政治家、実業家。勝田商会の創業者。山下亀三郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人。第八代神戸市長。
目次
1 生い立ち
2 修行時代
3 勝田汽船の誕生
4 関連
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銀次郎は、明治6年(1873年)10月1日、父の勝田林次郎と母ムメの長男として、愛媛県松山城下の唐人町に生まれた。父の生業は米殻商で、かなり裕福な商家であった。小学校を卒業を松山中学へ。当時の青年は、いつかはブラジル、満州へ行ってみたいが、さしあたって北海道の新天地開拓に憧れる風潮が高まっていた。明治23年(1890年)、父林次郎が亡くなったのを転機に中学を卒業と同時に北海道へ出稼ぎにでた。しかし、一路北へ向かう汽車のなかで、東京英和学校(青山学院の前身)の校長本多庸一と出会い東京英和学校に入学する。
卒業後、大阪で吉田貿易店の店員となったが、日清戦争が終了した明治28年(1895年)、その店は閉鎖してしまう。そこで神戸に移り、同業の足立輸出入株式会社に入社した。ここでの体験が海運業への地位を築くための有効な足がかりとなる。神戸の経済はいうまでもなく、造船、貿易、海運業であるが、これらはいずれも戦争を契機として大躍進を遂げ、日清戦争のときには、川西清兵衛、後藤勝造などの船成金といわれた数人の成功者を輩出した。当時貿易海運業に携わっていたものは誰もが、これを目標として競争心を駆り立てられた。勝田もその一人で、10年近い歳月を貿易海運業に費やした。
大正3年(1914年)、神戸市内に勝田商会という貿易会社を設立した。手始めにウラジオストクや天津から雑貨や豆粕の輸入を始めたが、扱い高は微々たるものだった。ところが第一次世界大戦が勃発して1、2年すると、それまで満を持していた勝田は、古船の買収、チャーターなどのあらゆる手を打つ。大正5年(1916年)8月には、勝田商会を勝田汽船株式会社に発展させて社長に就任した。
ワンマン肌の勝田が「巨船主義」をぶちまくったのだから世間の受けもよく、動きも派手で畳みかけるように次々とうち、それがことごとく当たったので、たちまち神戸船主のリーダー株になった。大正6年(1917年)には資産2000万円といわれたが、その勝田も終戦恐慌には生き残れなかった。
関連
神戸市
神戸市長
7代
黒瀬弘志 8代
1933.12.21 ‐ 1941 9代
野田文一郎
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カテゴリ: 日本の政治家関連のスタブ項目 | 日本の実業家 | 都道府県知事・市町村長 | 海運王 | 1873年生 | 1952年没
更新日時:2008年9月6日(土)22:04
取得日時:2008/10/08 03:38