加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖夫人・芳春院の死後、芳春院の化粧領だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を加える。
目次
1 概要
2 藩史
3 歴代藩主
4 家臣
4.1 人持組頭(加賀八家)
4.2 主な人持組
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
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加賀国石川郡にある金沢城(金沢市)に居城。明治2年(1869年)版籍奉還後には藩名を金沢藩と定められた。
藩主は前田氏。外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ松平姓と葵紋が下賜された。4代・光高から以後の藩主は将軍の片諱を拝領した。また、大名中最大の102万5千石を領し御三家に準ずる待遇であった。
織田信長によって能登1国を与えられていた藩祖前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子利長に越中が与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された。
慶長4年(1599年)前田利家が死ぬと、加賀東部と越中の合計83万石を領する利長と、能登に21万石を領するその弟利政に分割された。
翌、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ、敗れた側の利政は所領を没収。かわりに利長が利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、3国119万石に及ぶ所領を獲得した。のちに3代利常(利長の弟)が隠居するとき、庶子を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。また支藩として上野七日市藩1万石がある。
利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は彼の時代に造営された。
大政奉還時は徳川慶喜を支持したが、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。
明治4年(1871年)廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成。明治16年(1883年)旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定した。
旧藩主・前田家は明治17年(1884年)の華族令により侯爵となった。
※官位は初官位と終官位(贈官位含まず)
藩祖.利家(としいえ)〔従四位下?従二位、左近衛権少将兼筑前守?権大納言〕
利長(としなが)〔従五位下?従三位、肥前守?権中納言〕
利常(としつね)〔従四位下?従三位、侍従筑前守?権中納言?肥前守〕
光高(みつたか)〔正四位下、左近衛権少将兼筑前守〕
綱紀(つなのり)〔正四位下?従三位、左近衛権少将兼加賀守?参議?肥前守〕
吉徳(よしのり)〔正四位下、左近衛権少将兼若狭守?参議〕
宗辰(むねとき)〔正四位下、左近衛権少将兼佐渡守?左近衛権中将兼加賀守〕
重煕(しげひろ)〔従五位下?正四位下、但馬守?左近衛権中将兼加賀守〕
重靖(しげのぶ)〔従五位下?正四位下、上総介?左近衛権少将兼加賀守〕
重教(しげみち)〔正四位下、左近衛権少将兼加賀守?左近衛権中将兼肥前守〕
治脩(はるなが)〔正四位下、左近衛権少将兼加賀守?参議〕
斉広(なりなが)〔正四位下、左近衛権少将兼筑前守から左近衛権中将兼加賀守?左近衛権中将兼肥前守〕
斉泰(なりやす)〔正四位下?従二位、左近衛権少将兼若狭守?右近衛権中将兼加賀守?権中納言〕
慶寧(よしやす)〔正四位下?従三位、左近衛権少将兼筑前守?左近衛権中将兼加賀守?参議〕
加賀藩の直臣は、人持組頭、人持組、平士、足軽に大別される。人持組頭は別名を加賀八家、或いは前田八家とも言い、何れも一万石以上の禄高を持ち藩の重臣として藩政に関わった。人持組は、時に家老などの重職に就くことも有り、高禄の者は一万石以上、少ない方では千石程度の禄高で約70家が存在した。