第1 代皇帝
劉邦政権前漢
廟号太祖
諡号高皇帝
姓・諱劉邦
生没年前256年 - 前195年
在位期間前202年 - 前195年
父劉太公
母劉媼
陵墓長陵
劉邦(りゅう ほう、紀元前256年または紀元前247年 - 紀元前195年、在位紀元前206年 - 紀元前195年)は、前漢の初代皇帝。廟号は太祖、諡号は高皇帝。一般には、漢の高祖として知られる。字は季。
目次
1 生涯
1.1 概要
1.2 生い立ち
1.3 任侠生活
1.4 反秦戦争へ
1.4.1 陳勝・呉広の乱と挙兵
1.4.2 関中入り
1.5 漢王劉邦
1.6 楚漢戦争
1.6.1 項羽への反抗
1.6.2 大敗
1.6.3 再び敗れる
1.7 天下統一
1.8 粛清
2 その他
2.1 劉邦の影響
2.2 劉邦に関する著述
2.3 その妻妾と子女
3 注釈
4 関連項目
//
沛県の亭長[1]だったが、反秦連合に参加し、秦の都咸陽を落として一時は関中を支配下に入れるものの、項羽によって西方の漢中へ左遷され、漢王となる。後に東進して垓下に項羽を討ち、中国全土を統一、前漢を起こした。
沛県郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)で、父・劉太公、母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については二説あり、はっきりした事は不明である。
劉媼が劉邦を産む前に沢の側でうたた寝をしていたところに、その夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っかっているのを見て、その後に劉邦が生まれたという[2]。
また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している[3]。 一応、出土史料から諱が「邦」であったことはある程度正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである[4]。
劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また太股に72の黒子[5]があった。
反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる任侠の徒であり、家業には手を貸さず、酒と女を好んで酒場に出入りしていた。縁あって沛の東にある泗水の亭長(犯罪取締り)という役職に付いたが、ここでも真面目に仕事をせずに、むしろ役人をからかうような言動が見られたので、沛の役人のほぼすべてが劉邦を軽蔑していたという。この役人の中に後に劉邦の覇業をたすけることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦をあまり高く評価していなかったようである。しかし何故か人に好かれる性質があり、仕事で失敗しても周囲がかばったり、劉邦が飲み屋に居れば人が集まって、いつのまにか店が満席になった。また、この任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。
ある時に劉邦は夫役で咸陽に行った事があったが、そこで始皇帝の行列を見て、「ああ、男たるものああ為らなくてはいかんなぁ」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに言った「あいつに取って代わってやる!」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。
あるとき、単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に銭を持ってきていたが、あまりに集まった人が多いので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうとしていた。そこへ劉邦がやってきて進物を「銭一万銭」と宣言した。驚いた呂公は慌てて門まで劉邦を迎えて、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭などもっていないのを知っていたので、「劉邦は前から大法螺は吹くが、実際に成し遂げた事は少ない。(だからこのことも本気にしないでくれ。)」と言ったが、呂公は構わず劉邦を歓待し、その人相を見て劉邦を見込んで自らの娘を娶わせた。これが呂雉である。
妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら貧しく懸命に生きていた。ある時、呂雉が田の草取りをしていた所、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることが出来ない。」と言い、劉邦は大いに喜んだという。ただし、この話はおそらく作り話であろう。『史記』には他にもいくつかの劉邦が天下を取る事が約束されていた との話を載せているが、それらも同趣向である。ただそれらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は漢が火徳の王朝ということを自称することに繋がっている。