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劉少奇
中華人民共和国第二代主席
任期:1959年4月27日 ? 1968年10月31日
出生:1898年11月24日
湖南省寧郷県
死去:1969年11月12日
河南省開封
政党:中国共産党
配偶:王光美
主な出来事
国共内戦 ? 中ソ対立
大躍進政策
文化大革命 ? 林彪事件
改革開放
四五天安門事件
六四天安門事件
人物
毛沢東 ? 周恩来 ? 朱徳
劉少奇 ? 華国鋒 ? ?小平
林彪? 江青? 胡耀邦
趙紫陽 ? 江沢民 ? 李鵬
朱鎔基 ? 胡錦濤 ? 温家宝
理念
マルクス・レーニン主義
毛沢東思想 ? ?小平理論
4つの基本原則 3つの代表
地域
中国 ? 華北 ? 東北
華東 ? 華中 ? 華南
西南 ? 西北
中華人民共和国の行政区分
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劉 少奇(りゅう しょうき、リウ・シャオチー、?少奇, ?音: Li? Sh?oq?)は、中華人民共和国の政治家。凱豊や胡服などといった別名も使用した。 文化大革命の中で失脚、非業の死をとげた。
1898年に湖南省の寧郷で生まれる。1913年に長沙に行き鉅省中学に入学し、その後1920年にソ連へ留学、翌1921年に中国共産党に入党。主に労働運動で活躍した。第一次国共合作の崩壊後は様々な地下活動に従事し、1935年の十二・九運動などを指導した。 第二次世界大戦、及び日中戦争の日本の敗戦後に行われた1945年の第7回大会で毛沢東に次ぐ党内ナンバー2となった。
1949年の中華人民共和国成立後は、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席を歴任した。1956年9月以降は政治局常務委員も務める。1958年より毛沢東の掛け声で始められた大躍進政策が失敗に終わり、毛沢東に代わって国家主席、中央軍事委員会主席となり、形式上は毛沢東を超えるポストに就いた。 1960年代初期には市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めた。この頃、農村の疲弊ぶりに怒った劉が、毛沢東に「農村に人肉を食べている状況を記録せよ」と諫言したという(北海閑人著『中国がひた隠す毛沢東の真実』(2005年、草思社)より)。すでに党中央に強い基盤を持っていた劉は、それゆえに毛沢東にとって嫌な存在となった。
文化大革命の中で、権力奪回を図る毛沢東の標的とされ、「実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者」として徹底的な批判にさらされる。1967年7月18日、中南海の自宅が紅衛兵に襲撃される。表に連れ出された劉は、紅衛兵によって2時間余りにわたって暴行を受け、批判を浴びた。1968年に除名、失脚へと追い込まれた。自宅監禁状態であった劉は病の床に就くが、散髪、入浴ともに許されず、警備員はおろか、治療する医師までからも執拗な暴行を受けた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された。治療も許されぬまま放置され、没した。死亡カルテには「無職・劉衛黄」と記され、ただちに火葬されたという。このとき、中国政府は「病死」と発表している。
毛沢東の死後の1980年に名誉回復を果たした。遺骨は遺言により夫人の王光美らによって海に散骨された。