前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役である。
目次
1 名称の変遷
2 戦いの経緯
2.1 開戦から一時休戦まで
2.2 阿久利川事件
2.3 安倍頼時の死
2.4 黄海の戦い
2.5 清原氏参戦
2.6 戦後処理
3 文献に見る前九年の役
4 源氏の神話化の原点としての前九年の役
5 脚注
6 関連項目
7 参考文献
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この戦役は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、元々は奥州十二年合戦と呼ばれており、古事談、愚管抄、古今著聞集などにはその名称で記されている。 ところが、保元物語、源平盛衰記、太平記などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。 これは源頼義が本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、『奥州十二年合戦』が「後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解され、12年から3年を引き、前段について前九年の役と呼ぶようになったなどの説がある。
また戦乱を13年間としている書物もあり、年数計算については諸説ある。
陸奥国の土着の有力な豪族安倍氏[1]は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。
しかるに、11世紀の半ば朝廷への貢租を怠る状態になり、1051年陸奥国司藤原登任が数千の兵を出して懲罰せんとし、戦闘が勃発する。この戦闘は、舞台となった玉造郡鬼切部の地名から「鬼切部(おにきりべ)の戦い」と呼ばれている。この戦闘では秋田城介の平重成も国司軍に加勢したが、結果は安倍氏の圧勝であり、登任は敗れ都へ帰った。
そこで朝廷は翌1052年に河内源氏の源頼義を陸奥守とし、事態の収拾を図る。ところが同じ年、後冷泉天皇生母(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気快癒祈願の為に大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。安倍頼良は陸奥に赴いた源頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。また1053年には源頼義は鎮守府将軍となっている。
頼義の陸奥守としての任期が終わる1056年、阿久利川事件と呼ばれる謎の事件が発生する。『陸奥話記』によると、事件の経緯はこうである。ある時、頼義が鎮守府から国府に戻る為に阿久利川の河畔[2]に野営していると、密かに頼義の元に密使が来て、「(頼義の部下である)藤原光貞と元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た。」との情報が伝えられた。頼義が光貞を呼び出して事情を聞いたところ、光貞は「以前に安倍貞任が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と語った。そこで怒った頼義が貞任を呼び出したところ、安倍頼時は貞任の出頭を拒否した為、再び安倍氏と朝廷は戦いに突入したとされる。
この事件については、源頼義による謀略説、藤原説貞(光貞、元貞の父)による謀略説が提起されている。
なお、このとき衣川の南にいた平永衡・藤原経清は頼義に従い配下の将となっていたが頼時の女婿でありいつ裏切るかも知れないと、微妙な立場にあった。この時点で平永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた源頼義は永衡を粛清した。同じ女婿という立場で将軍に従っていた藤原経清(亘理権大夫)は累が自分に及ぶと考え、偽情報を発し頼義軍が多賀城に急行している間に安倍軍に帰属した。その後、戦況は膠着状態に陥った。
源頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を調略し、味方に引き入れることに成功する。これに慌てた頼時は、富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負って本営の衣川を目前に鳥海柵にて横死してしまう。頼時の跡を継いだのは安倍貞任である。
頼義は天喜5年(1057年)9月朝廷に安倍頼時戦死を報告するも、論功行賞を受ける事が出来なかった。11月、頼義は再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃し、安倍貞任に決戦を挑んだ。この時の頼義の兵力は最大に見積もっても3000名程度であったと推測されている。
貞任は河崎柵(現在の一関市域、旧東磐井郡川崎村)に4000名ほどの兵力を集め、黄海(きのみ、現在の東磐井郡藤沢町黄海)にて頼義軍を迎撃した。