入れ墨(いれずみ)とは、墨を人の皮下に入れること、または施術された文様。イレズミという言葉は、入れ墨、入墨、文身、剳青、黥、刺青、色々な漢字で書かれる(文身は「ブンシン」とも)。「彫り物」も入れ墨を表す事がある。特に西洋の影響で施す入れ墨をタトゥー(英:tattoo、仏:Tatouage)と呼びわけることが多い。
目次
1 概説
2 日本の入れ墨
2.1 古代
2.2 江戸時代の入れ墨
2.3 現在の日本での入れ墨
3 「入れ墨」の単語リスト
4 関連書籍
5 関連項目
6 外部リンク
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身体の装飾や地位・身分を表したり、目印や信仰のためなど、入れ墨を入れる理由は多様である。入れ墨とタトゥーは、皮膚に色を刺す行為自体は同じなので、用語以外に違いはなく、翻訳の際には混同される。
入れ墨の絵は単純な模様から、複雑な模様まで多くある。皮膚に色を刺す行為は古代から世界中であり、刑罰、成人男子や既婚の女性であるなど、身分や所属の違いを表すことが多かった。
近年では若者の間で専らファッションとして入れられることが多いが、暴力団関係者の象徴とされているため、日本では現代でも公衆浴場(スーパー銭湯も)や遊園地、プール、ジム、ゴルフセンター等への入場を断られたり、周囲に悪い噂が立つなど社会生活上の不都合も少なくない。また江戸時代に刑罰の印しとして墨を入れられたことなども背景として考えられる。一部の人間の間では今日刺青の社会的な意味合いが嘗てとは異なる場合もあるが、社会通念上、刺青は社会から受け入れられることが少ない。
暴力団追放のキャンペーンとして一概に排除することが適切であるか、人権上の問題として議論されつつある[要出典]。
韓国では文身(ムンシン)と呼ばれる。併合時代(韓国では日帝時代という)に日本から入った文化ともいわれるが、それ以前の李朝時代(韓国では朝鮮時代という)にもすでに入墨の文化はあった。李朝時代の歴代の王の治世を記録した「実録」の第四代の世宗王(1397-1450)の記録によると、皇太子(韓国では世子)の側室と女官が同性愛にふけったというスキャンダルがある。以後、女性同士のお互いの愛情の証として「朋」という文字の入墨を尻に密かに入れるという風習が宮中であったと記録されている。
近年の韓国では、徴兵逃れをするために入墨を入れるものもいて、摘発されている。 入墨を施す技術に関しては日本の彫り師の評判が高く、日本から呼び寄せた彫り師を数週間、韓国に滞在させて、入墨を施してもらったり、色味を修正してもらう韓国のヤクザもあり、これも過去、摘発例がある。タトゥー
フィリピンでは入国の際、入国を待つ列から無作為に選び、タトゥーチェックをする。タトゥーが見つかると、入国拒否をチラつかせながら、暗に裏金を要求する空港職員がいる[要出典]。この場合、無作為に列から選ばれるので、外見に気をつけていても関係ない。こういった話は、ベトナムにもあるようだ。現在フィリピンでタトゥー検査はされていない。
縄文時代の土器の人形の縄文式文様は入れ墨のしるしだとする説があるが、確証はない。
3世紀の日本について記した『魏志』倭人伝は、男子がみな黥面文身していたと伝える。文身とは、顔以外の身体に入れ墨をすることであり、黥面とは顔に入れ墨をすることである。
時代が下って、『日本書紀』の記事中にも、入墨についての記事がある。武内宿禰の東国からの帰還報告として、蝦夷の男女が文身していたとある(景行27年2月条)。履中天皇が住吉仲(すみのえなか)皇子の反乱に加担した阿曇野連浜子(あずみのむらじはまこ)に、罰として黥面をさせた。河内飼部(かわちのかいべ)の黥面をやめさせた(履中元年4月条、同5年9月条)。宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたので、犬の飼い主に黥面して鳥飼部(とりかいべ)とした(雄略11年10月条)。阿曇野連は漁民でもある海部(あまべ)を統括する氏族であり、河内飼部は馬の飼育にかかわる河内馬飼部(うまかいべ)のことであり、また鳥の飼育をするのが鳥飼部である。これらは、生き物を飼う職能集団であるという共通性がみられる。飼育している生き物からの危害を避け、威嚇する意味も含めて、こうした呪術的意味を含み黥面をしていたと推側する研究者もいる。
江戸時代中期以降は「いれずみ」は刑罰の一部を指し、それ以外のものは「ほりもの」と呼ばれた。ただし、その由来は古代中国に存在した墨(ぼく)・黥(げい)と呼ばれた刑罰にまで遡る事が出来る(前漢の将軍・黥布は若い頃に顔に罰として入れ墨を施された事から逆に自ら名乗ったのだという)。
刑罰としての入れ墨は、顔など一見してわかる場所に施されたものも多いが、江戸時代には左腕の上腕部を一周する形で二、三本のライン(単色)を彫るものであった。(これは地域によって模様が違う。地方によっては額に入れ墨をし、段階的に「一」「ナ」「大」「犬」という字をいれたところもあった。五度目は死罪になる。)これに対し「彫り物」は主に江戸火消し(鳶)が粋を見せるためや、漁民が出漁中に遭難死した場合の身元確認用に用いられていたようである。どちらも呼び名は異なるが、もちろん同じ刺青である。ただし入れ墨は刑罰として用いられたため、呼称として彫り物と呼ぶほうが好まれる。
江戸時代の浮世絵など文化的成熟を通して、装飾としての彫り物の技術も発展した。背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな彫り物が、江戸時代に完成した。
十九世紀に入るとその流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、彫り物をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及していった。旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、彫り物を施す者が現れるようになった。