冷泉家
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現在の冷泉家住宅

冷泉家(れいぜいけ)は公家の一。近衛中将に代々任命された羽林家とよばれる武官の家柄の公家。藤原北家
目次

1 概要

1.1 黎明期〜鎌倉末期

1.2 南北朝時代〜江戸時代の下冷泉家

1.3 南北朝時代〜江戸時代の上冷泉家

1.4 明治時代以降

1.5 連枝


2 重要文化財・冷泉家住宅

2.1 京都御苑および周辺に残るその他の公家住宅

2.2 冷泉家以外の歌の家


3 参考文献

4 関連項目

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概要

藤原道長の子藤原長家を祖とする御子左流二条家五摂家二条家とは別)の庶流。藤原為家藤原定家の子)の子である冷泉為相(母は『十六夜日記』で有名な阿仏尼)から始まる。

家名は平安京の冷泉小路に由来する。家業は歌道蹴鞠。歌風は、本家である二条家および京極家武家京極氏とは別)に比べるならば、そう特徴的なものはない。

室町時代中期に上冷泉家(かみれいぜいけ)・下冷泉家(しもれいぜいけ)の2家に分かれた。

両家とも現在に続く名門であるが、一般に冷泉家として知られるのは、江戸時代から屋敷が移転していない上冷泉家のほうである。

下冷泉家の屋敷は、京都御苑内に位置していたため、公家町を公園として整備するさい取り壊された。上冷泉家の江戸時代における家格羽林家で、官位は概ね権大納言民部卿極官とした。


黎明期〜鎌倉末期

冷泉為相鎌倉幕府と親しく、長らく鎌倉の藤ヶ谷に居を構え藤谷黄門と呼ばれた。娘の一人は鎌倉将軍の久明親王持明院統の後深草天皇の皇子)に嫁ぎ、外孫の久良親王が誕生している。この時期の冷泉家は持明院統の外戚として関東の鎌倉で栄えた。


南北朝時代〜江戸時代の下冷泉家

南北朝時代、二条家大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると急速に勢力を縮小させた。それにかわり京都においても、分家の冷泉家が勢力を伸ばし始めた。室町時代、冷泉為尹の長男為之の上冷泉家と、次男持為の下冷泉家に分かれた。持為は、冷泉家の当主にはならなかったが、その実力を足利将軍家から認められ、独立した一家をもうけることが許され、兄の冷泉家とは別に同じ冷泉家を名乗ることも許された。所領及び家に伝わる文書は、この時二分された。『十六夜日記』で有名な細川庄は、下冷泉家の相続分である。

下冷泉持為・下冷泉政為は、それぞれ将軍足利義持義政に厚遇され、偏諱まで賜った。この時期は、下冷泉家こそ冷泉家の本流であった。戦国時代は、大名による横領を防ぐため、先述の播磨国細川庄に下向していた。ところが、下冷泉為純、下冷泉為勝が播磨守護赤松氏の支族別所氏に殺されたため、為勝の弟の下冷泉為将が京都において下冷泉家を再興した。日本儒学の祖とされる冷泉粛(朱子学者藤原惺窩として有名)は下冷泉為将の兄である。彼自身は下冷泉家の当主になる機会はなかったが、息子の為景が為将の養子として当主になり、その血統が子孫に続いている。下冷泉家は播磨下向時代以来豊臣秀吉と親しい間柄だったため、秀吉は下冷泉家の再興に協力を惜しまなかった。


南北朝時代〜江戸時代の上冷泉家

上冷泉家も戦国時代は、能登守護畠山氏や駿河守護今川氏を頼り地方に下向しており、都にはいなかった。織田信長の時代には都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された天正13年(1586年)に勅勘を蒙り、再び地方に下った。秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)に徳川家康のとりなしによって、ようやく都へ戻ることができたという。かつて秀吉は、天皇の住まう御所周辺に公家たちの屋敷を集め公家町を形成したが、上冷泉家は、公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構えることが出来なかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は、家康から贈られたものである。徳川家には厚遇されたので上冷泉家の江戸時代の繁栄ぶりは周知の通りである。とくに幕臣の旗本に高弟が多くいた。仙台伊達家と姻戚でもあった。


明治時代以降

明治時代に、上冷泉家は伯爵、下冷泉家は子爵となった。下冷泉家も、家系的には全く劣るものではなかったが、戦国時代に別所氏によって当主が殺され、所領を失ったことが後々官位にも響き、明治期の爵位の差となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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