円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち[1]、1940年(昭和15年)5月13日 - 1968年(昭和43年)1月9日)はマラソン選手。
福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。陸上自衛隊三等陸尉。
目次
1 軌跡
1.1 東京五輪への道
1.2 栄光の銅メダル
1.3 挫折、自殺
2 注釈
3 関連項目
4 外部リンク
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須賀川市立第一中学校を経て福島県立須賀川高等学校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。郡山駐屯地に配属となり、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。次第に陸上競技の実績が認められ、自衛隊の管区対抗駅伝や、県対抗東日本縦断駅伝などに出場した。一方、オーバーワークから腰椎のカリエスを持病として抱えるようになる。1962年、東京オリンピックに備えて前年発足した自衛隊体育学校がオリンピック候補育成のため、特別課程の隊員を募集した際には腰痛のため選考会に出られなかった。しかし、円谷の走りを知っていた駅伝チームのコーチ畠野洋夫の推薦を受けて入校する。
体育学校入学当初は腰痛が治らず、満足に走れなかった。しかし畠野が根気よく指導し治療を続けた結果、レースに復帰。10月の日本選手権で5000mに日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれる。翌1963年8月には20000mで2位ながら世界記録を更新。10月の競技会では好記録を連発して10000mのオリンピック代表選手に選ばれた。この段階では円谷はトラックと駅伝の選手と見られており、マラソンは未経験だった。しかし、陸連の強化本部長だった織田幹雄は円谷のスピードに着目してマラソンを走ることを勧めた。
オリンピックイヤーとなった1964年3月20日、初マラソンに挑戦。2:23:31で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソンの前身。このときは東京オリンピック本番と同じコースで実施)に出場、2:18:20.2で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。オリンピック本番までのマラソン経験3回は、戦後の男子マラソン代表では新宅雅也と森下広一とに並ぶ少ない記録であるが、初マラソンからオリンピック本番までの期間は、新宅が3年半、森下が1年半あったのに対し、初マラソンから7ヶ月でこれは戦後では最短記録である。
東京オリンピック本番では、まず陸上競技初日に行われた10000mに出場し6位入賞。これは男子の陸上トラック競技で戦後初の入賞であった。一方、最終日に行われる男子マラソンについては、君原が日本人では最有力と目されており、円谷は経験の少なさからあまり注目はされていなかった。しかし、本番では君原や寺沢徹が脱落する中、上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きが出来なかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2:16:22.8(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。これは東京オリンピックで日本が陸上競技で獲得した唯一のメダルとなり、「日本陸上界を救った」とまでいわれた。
次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル」と円谷は宣言した。しかし、様々な不運に見舞われる。所属する自衛隊体育学校の校長が替わり、それまで選手育成のために許されて来た特別待遇を見直す方針変更を打ち出した。その上、ほぼ決まりかけていた円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談となってしまう。直後に、体育学校入学以来円谷をサポート、婚約に対する干渉の際も「結婚に上官の許可(「娶妻願」の提出)を必要とした旧軍の習慣を振り回すのは不当だ。」と抵抗した畠野が突然転勤となり、円谷は孤立無援の立場に追い込まれた。オリンピックの敗北の後、結婚して復活した君原健二とはあまりにも対照的であった。
さらに円谷は幹部候補生学校に入校した結果トレーニングの時間に苦労するようになる。その中で周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年には手術を受ける。病状は回復したが、既に嘗てのような走りを出来る状態ではなかった。
周囲の期待の重圧と走れない焦りから、1968年1月9日にカミソリで左頚動脈を切って自殺。戒名は最勝院功誉是真幸吉居士。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました...」で始まり「幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にあった家族への感謝と「疲れ切ってもう走れない」の言葉は世間に大きな衝撃を与えた。川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』を発表し「繰り返される《おいしゅうございました》 といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。