内藤政優凡例
時代江戸時代後期
生誕文化2年12月5日(1810年12月30日)
死没嘉永4年2月12日(1851年3月14日)
別名勝之助・金一郎(幼名)、謙堂(法号)
戒名豊安院殿崇誉徳興忍山大居士
墓所東京都港区高輪の光台院
官位従五位下、丹波守
幕府江戸幕府奏者番
藩三河挙母藩主
氏族井伊氏→内藤氏
父母父:井伊直中、母:公田氏
養父:内藤政成
兄弟井伊直清、井伊直亮、井伊中顕
中川久教、内藤政成、松平勝権
内藤政優、井伊直弼、内藤政義
妻正室:島津重豪の養女
(脇坂安董の娘)・寿子(妙倫院)
側室:笑子(清岡氏)
子養女(堀田正誠室)、養子:内藤政文
養女(松平康圭室)
内藤 政優(ないとう まさひろ)は、三河挙母藩の第5代藩主。挙母藩内藤家9代。井伊直弼の実兄である。
文化7年(1810年)12月5日、近江彦根藩主・井伊直中の十三男として生まれる。幼少時に病にかかり、それによって歩行が不自由になった。
しかし実兄で挙母藩の第4代藩主である内藤政成が、養子入りの持参金目的から養子として迎えることとなり、文政13年(1830年)9月20日、兄の隠居により家督を継いで第5代藩主となる。12月6日に従五位下・丹波守に叙位・任官する。
天保の大飢饉が起こると救済に尽力したが、天保7年(1836年)9月21日には現在の松平地区で加茂一揆が発生する。飢饉に苦しむ農民が年貢の減免や市場価格の抑制を求めて起こした一大農民一揆で、1万人以上の農民が参加する大騒動に発展した。挙母藩では先代から軍事力の強大化に務めていたため、政優は鉄砲隊を組織して矢作川の堤防で農民を撃退し、一揆を鎮圧している。なおこの一揆は東海地方有数の規模となり、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱にも影響を与えることとなった。またこの加茂一揆には「鴨の騒立(かものさわだち)」という別名がある。
この一揆の後、政優は西洋式の砲術を導入して軍の近代化に務め、藩財政再建のために倹約や家禄削減を行なっている。また蘭学を奨励し、自らの生活費用を切り詰める代わりに、漢籍や蘭学書を買っていたという逸話もある。天保13年(1842年)には奏者番に任じられた。
嘉永4年(1851年)2月12日に死去。享年42。後を甥で養子の内藤政文が継いだ。
先代:
内藤政成内藤氏(挙母藩5代)藩主
1830年 - 1851年次代:
内藤政文
カテゴリ: 井伊氏 | 内藤氏 | 江戸の大名 | 譜代大名 | 1810年生 | 1851年没
更新日時:2008年6月9日(月)00:47
取得日時:2008/08/18 17:53