共和人民党
■毎日更新無料動画!
■未公開流出画像満載

[Wikipedia|▼Menu]

共和人民党(きょうわじんみんとう、トルコ語 : Cumhuriyet Halk Partisi)は、トルコ政党。略称はCHP。英語名はRepublican People's Party。1992年以降の党首はデニズ・バイカル。

1923年9月9日にムスタファ・ケマル(のちのトルコ共和国初代大統領ケマル・アタテュルク)により人民党(Halk F?rkas?)として設立され、1980年クーデターで全政党が解散させられたため1980年代にはいったん解党状態となったが、1992年に活動を再開した。1999年の総選挙では議席獲得要件の得票10%に満たなかったため国政から議席を失ったが、2002年2007年の総選挙では党勢を回復、第一党公正発展党が絶対過半数を占める議会においてほぼ唯一の野党勢力となった。現在の党の位置づけは中道左派であり、イギリス労働党ドイツ社会民主党フランス社会党などと並んで社会主義インターナショナルに加盟している。
目次

1 綱領、党旗および党章

2 歴史

2.1 一党支配体制期

2.2 民主党政権期

2.3 左旋回から解党へ

2.4 共和人民党の復活


3 総選挙での得票率、獲得議席数

4 歴代党首

5 脚注

6 関連項目

7 外部リンク

//


綱領、党旗および党章

共和人民党の綱領は、アタテュルク党首時代の1927年の党大会において、「6本の矢」と呼ばれる6大原則として採択された。

共和主義 (Cumhuriyetcilik) - 共和制の確立をめざす。

国民主義 (Milliyetcilik) - 民族主義とも訳される。トルコ民族による国民国家の確立をめざす。

人民主義 (Halkc?l?k) - 国民主義とも訳される。社会の諸階層・職能団体の団結をめざす。

国家資本主義 (Devletcilik) - 民族資本による国民経済の確立をめざす。

世俗主義 (Laiklik) - 宗教の政治からの分離・排除をめざす。

革命主義 (?nk?lapc?l?k)

この6原則は1937年には憲法にも加えられ、1940年代まで続く共和人民党一党独裁期の政権と政策を支える基本原理となった。

自らを「アタテュルクの党」であると規定する現在の共和人民党も、6大原則をケマリズム(アタテュルク主義)の原則として尊重し、党の綱領に掲げている。現在では価値を失いつつある国家資本主義、革命主義を除いた共和主義、国民主義、人民主義、世俗主義の4原則がとくに重視されており、2002年以降の議会においては、イスラム主義政党の系譜をひく保守系政党の与党公正発展党とは、とくに世俗主義にかかわる分野で対立関係にある。

党旗および党章は「6本の矢」に基づいて制定されたもので、赤地に6本の白い矢印がむかって左下から伸びる絵柄をあしらう。それぞれの矢は「6本の矢」の各原則を表している。


歴史


一党支配体制期

共和人民党は、トルコ革命において、ケマルが主導して1919年に全国組織化し、祖国解放戦争における抵抗運動の基盤組織となった「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」の後継組織として自らを位置付けている。しかし、実際には、オスマン帝国議会の残党と権利擁護委員会が合流して生まれた大国民議会において、1921年に大国民議会議長にしてアンカラ政府首班のケマルの与党としてつくられた「権利擁護グループ」を直接的な起源とする。この時点で議会内にかなり存在していた反ケマル派は「第二グループ」と呼ばれる野党を結成して対抗していたが、救国の英雄としての名声を背景に独裁指導力を握りつつあったケマルによって1923年初夏に行われた選挙から排除されていた。人民党は、この選挙で勝利した権利擁護グループが8月に行われた議会の召集を前に政党を結成したものである。

その後、共和制の施行、カリフ制の廃止を経て、1924年には「共和制」を政党名に冠し、共和人民党(Cumhuriyet Halk F?rkas?)に改称し、1935年に言語改革にあわせて「政党」を意味する部分の語をアラビア語起源のF?rkaからフランス語起源のPartiに改めて現在の党名となる。

共和人民党に改称した直後には直前に人民党を離党した反主流派グループが進歩主義者共和党を結成したが、翌1925年に閉鎖に追い込まれ、共和人民党が議会における一党支配を確立した。ケマル自身は反対派を排除しつつも、一党独裁体制の弊害を理解していたため、1930年には体制内野党として自由共和党の創立が試みられるが、野党が一党支配への不満の受け皿となって共和人民党を脅かす怖れが出たため年内に解党させられている。


民主党政権期

1938年にケマル・アタテュルクが死去した後も、第2代大統領となったイスメト・イノニュを終身党首に選出し一党支配体制を続けたが、第二次世界大戦の準戦時体制で蓄積した不満の捌け口が必要となり、1945年に多党制の導入が決定された。同年にはアドナン・メンデレス、フアト・キョプリュリュら党執行部に批判的な議員が共和人民党を除名され、彼らに同調して議員を辞職、共和人民党を離党したジェラル・バヤル元首相を党首として1946年1月7日に民主党が結党された。


★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki