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質問の要約:沿革・官営製鐵所時代について
東田第一高炉跡 「1901」は操業開始の1901年を指す
八幡製鐵所(やわたせいてつしょ)は、福岡県北九州市戸畑区・八幡東区にある製鉄所である。日本初の近代製鉄所で、現在は新日本製鐵が運営する。戸畑地区と八幡地区に分かれており、かつての本事務所に相当する総合センターは戸畑地区の正門前、北九州市戸畑区飛幡町1-1に立地する。
読みは「やわた」であるが、現在では何故「やわた」と読むのかはっきりと分からないため、「やはたせいてつしょ」と読む人がほとんどである(後述参照)。
目次
1 概要
1.1 生産品
1.2 専用鉄道
1.3 名称
2 沿革
2.1 官営製鐵所時代
2.2 日本製鐵八幡製鐵所時代
2.3 八幡製鐵八幡製鐵所時代
2.4 新日本製鐵八幡製鐵所時代
2.5 年表
3 八幡地区遊休地の整備
4 行事
5 関連項目
6 外部リンク
7 参考文献
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概要
敷地面積 1614万m?
従業員数 約2900人
年間粗鋼生産量は約369万トン
八幡製鐵所は八幡地区と戸畑地区を結ぶために約6kmの専用鉄道(八幡製鐵鉱滓鉄道くろがね線)を所有している。
八幡製鐵所は「やわた」と読み、所在地の八幡は「やはた」と読む。国が地名を読み違えたのが原因といわれる。他には、日本建国神話のなかでスサノオ命と戦った八俣遠呂知の八俣が八幡の起源であるとの庶民の噂を聞いたときから「やはた」→「やわた」と音をあらためたという意見もある。
明治政府の殖産興業のスローガンの元、1895年の製鉄事業調査会設置、翌1896年3月30日の製鐵所官制発布、そして1891年の本格的な建設開始をえて、1901年2月5日に東田第一高炉で火入れが行われた。建設費は日清戦争で得た賠償金で賄われている。八幡村(現北九州市八幡東区)が選ばれたのは、軍事防衛上や原材料入手の利便性などが挙げられている。当時は、単に製鐵所と呼んでいた。操業当初、技術上の問題から故障が多発、銑鉄がほとんど取れず、11月18日の作業開始式では国の高官が集まっていた中、銑鉄の練成に失敗し、高官たちは茫然となってしまった。その後も銑鉄がほとんど取れず、それに伴い赤字が膨れ上がり、遂に1902年7月に操業を停止する事態となってしまった。
その後、1904年2月に日露戦争が勃発した。鉄の需要が急激に増えたため政府は製鐵所の操業再開を決め、急激な需要増に対応するよういち早い再開を求めたが、製鐵所を設計した東京帝国大学工学部教授・野呂景義は原因が分からないままでの再開はいけないと反対し、まず現場の者から聞き取り調査を行った。その声を元に[要出典]野呂は高炉を改良し、7月23日、高炉に再び火が入った。改良は成功、多くの銑鉄を得ることができた。その後も日に日に銑鉄の量が増していった。戦争が終わると今度は民間から鉄の需要が増え、技術革新、重工業の発展に伴う需要増加に応えるため、第一期拡張工事(1906年〜1910年)、第二期拡張工事(1911年〜1915年)、そして第一次世界大戦で大幅に増えた鉄鋼需要に応え、第三期拡張工事(1917年)、1927年には年間銑鉄生産量年100万トン計画が立案され、海に築く製鉄所の先駆けとなった洞岡高炉群の建設決定(1938年完成)と、次々と拡張してゆき、国内の大半の需要を八幡製鐵所が賄うようになった。
当初は農商務省管轄だったが、中央省庁再編によって1925年に商工省管轄となり、それは1934年の日本製鐵発足まで続いた。
第一次世界大戦後の不況により、製鉄企業の合理化が推し進められ、1934年1月29日に日本製鐵株式會社法により、官営製鐵所・九州製鋼株式會社・輪西製鐵株式會社・釜石鉱山株式會社・富士製鋼株式會社・三菱製鐵株式會社・東洋製鐵株式會社の官民合同で日本製鐵株式會社を設立した。この時官営製鐵所の名称が八幡製鐵所へと変更された。一連の出来事は製鉄大合同と呼ばれ、国内のシェアのほとんどを日本製鐵が占めることとなった。