全日本空手道連盟錬武会(ぜんにほんからてどうれんめいれんぶかい 以下、錬武会)は、空手団体の一つ。会長は参議院議員長谷川憲正。
目次
1 概要
2 歴史
3 組手
4 形
5 流派
6 勢力図
7 代表的な選手
8 全国大会の名称
9 その他
10 参考資料
11 関連項目
12 外部リンク
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全日本空手道連盟(全空連)の協力団体の一つでありながら、ストロングマンと呼ばれる防具(安全具)を着用しての組手試合を行うことが特徴(但し、いわゆる「全空連ルール」に則った組手も並行して行っている)。また、アラスカ支部主催の国際大会は素面で行われている。 「技有り」二つで一本勝ちとなるが、防具付き空手界では最もその判定が厳しく、強打しかとらない。 この強打のみがポイントとなる点、頑丈過ぎるストロングマンを使用する点は、「一撃必殺的」、「実戦的である」という好意的な意見と「危険」、「連続技が使えない」という否定的な意見があり、人によって評価が分かれている。
防具付き空手団体は細分化され多数の団体が存在するが、錬武会はかつて全日本空手道連盟を称し、空手界初の全国大会を開催するなど防具付きの道場を統括していた団体だった。しかし、全日本硬式空手道連盟、国際防具付空手道連盟などが次々に独立し、今に至っている。
1945年(昭和20年) 東京九段に錬武会の前進である韓武館道場が設立。
1954年(昭和29年) 東京共立講堂で空手界初の全国大会「全国空手道選手権大会」を開催。
1959年(昭和34年) 防具付きルールによる全日本空手道連盟(旧)が結成される。
1964年(昭和39年) 現在の全日本空手道連盟の成立により、その協力団体として全日本空手道連盟錬武会と名称変更をする。また、全空連との申し合わせにより、各会派の全国大会は中止となる。以後、6年間は海外でアジア大会を実施。
1971年(昭和46年) 全国大会を復活。
1981年(昭和56年)錬武会の指定防具としてそれまで使われていたカラテクターに換わり、ストロングマンが開発される。
同年、錬武舘などにより日本硬式空手道協会(現在の全日本硬式空手道連盟)が設立され、錬武会から独立する。
2000年(平成12年) 阿部吉文選手が10制覇達成。同年、国体のリハーサル大会として第21回全東北・北海道防具付空手道選手権大会が開催され、硬式空手勢が友好参戦し、錬武会vs硬式空手として話題になる。
2001年(平成13年) 新世紀・みやぎ国体のデモンストレーション競技として防具付空手が実施される。また、この年のルール改正で背足蹴りが解禁される。
2004年(平成16年)新型ストロングマンが採用される。
錬武会の組手は基本的には伝統派空手に近く、寸止めと両立している選手も多い。しかし、「一撃必殺」的と評される通り、強打のみが「技有り」となる故、間合いが遠く、重心を低く構える選手が多い。 なお、組手試合のルールは全日本防具付空手道競技規定および全日本防具付空手道審判規定による。
一本勝負、時間は正味2分
延長戦は「技有り」先取り勝ち
正確・有効である突き・打ち・蹴りが定められた部位に決まった場合を「一本」とする。それに準ずる有効技は「技有り」となり、2回合わせて「一本」となる。
攻撃は頭部、顔面部、胸部、腹部、上半身両側部に限定され、それ以外のところへの攻撃は禁止されている。
攻撃に繋げる目的での足払いは認められているが、ローキックは禁止。
防具はストロングマン(面、胴、グローブ)を着用。足や脛のサポーターは認められていない。
※なお、蹴りは長年、前蹴りのみならず回し蹴りも足頭部で当てることとされていたが、第40回大会から背足蹴りが解禁された。
錬武会は指定形として以下のものがある。
ナイハンチ3段
知花クーシャンクー
城間チントウ
松茂良ローハイ
クーシャンクー
錬武会は、防具付きルールに賛同した伝統派の道場が集まった競技団体である。 会派そのものは松濤館流の系統にあるとされるが、剛柔流、糸東流、神道自然流など多種多様の道場が参加しており、各道場は会派は錬武会、流派はそれぞれ別、という形態をとっているところが多い。
また、指定形も複数の流派の影響が見られる。
組手の一般男子は、団体戦は第40回大会の忍誠館、個人戦は第43回大会の外薗大志選手の優勝を除き、長らく宮城県一強時代が続いている。 特に、個人戦においては阿部吉文選手が10度制覇し、阿部選手が退いた後も佐藤光信、近藤飛鳥選手により頂点の座が守られている。 なお、宮城に続く勢力としては埼玉の忍誠館、外薗大志選手率いる神奈川、寸止めの県強化選手が主力の青森がある。 ところが第47回大会では個人戦で外薗大志選手、団体戦で忍誠館が優勝し、約四半世紀ぶりに宮城が一般男子において個人・団体ともに優勝を逃す結果となった。