全日本プロレス中継(ぜんにほんプロレスちゅうけい)は1972年-2000年に日本テレビで放映されたプロレスの実況中継番組。全日本プロレスの試合を中継していた。
番組の放送時間が1時間から30分間に縮小されたのに伴い、タイトル表記が『全日本プロレス中継30』となった時期もあったが、後に放送時間は30分間のままで、従前の『全日本プロレス中継』に戻った。
テーマ曲は『日本テレビスポーツのテーマ』。
目次
1 前史
2 放送開始-80年代
3 番組の終焉
4 その他エピソード
5 プロレスニュース
6 主な実況アナウンサー
7 主な解説者
8 登場ゲスト
9 スタッフ
10 ネット局
10.1 ネット局に変更などがあった地域
11 関連項目
12 番組スポンサーに関する特筆事項
13 前後番組の移り変わり
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元々日本テレビでは開局(1953年)以来、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らを中心とした日本プロレスの試合を、『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』などのタイトルで放送していた。しかし、1972年4月に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)が担当していた中継の試合にジャイアント馬場を出場させたことに激怒したため、番組を打ち切った(ワールドプロレスリングを参照)。
1972年10月、馬場が新たに創設した全日本プロレスと日本テレビが中継権を締結し、新番組『全日本プロレス中継』が毎週土曜日の20:00-20:54に放送されることとなった。第1回(10月7日)は「海外遠征第一戦『G・馬場対ザ・シーク』」(注)、第2回(10月14日)は「G・馬場アメリカ転戦記」と題し、団体旗揚げ前の馬場が、アメリカ遠征で行った試合の模様(一部、馬場以外の所属選手も含む)を放映し、第3回目となる、10月21日の「ジャイアントシリーズ前夜祭」(東京・町田市体育館)の生中継から、正式に新団体の中継放送に入った。
(注)中京広域圏での第1回の放映は中京テレビ放送が2日遅れ(10月9日)の19:00から行った(第2回以降は日本テレビと同時ネット)。左記の理由については名古屋テレビ放送の沿革の項を参照のこと。
創立初期は、馬場の人脈を利して一流外国人を常時招へいする一方、日本陣営にサンダー杉山やザ・デストロイヤーを参加させるなど、選手の拡充を図った。さらに、鶴田友美(ジャンボ鶴田)、アントン・ヘーシンク、天龍源一郎、80年代には輪島大士などといった、話題性のある大型新人を、積極的にデビューさせていった。
70年代から80年代にかけては「プロレスの本場」としてのアメリカや、NWAの権威や地位などがまだまだ保たれていた時代であり、それはそのまま、実質的に日本で唯一のNWA加盟団体であった、全日本の強味となっていた。とかく大味になりがちだった試合内容はともかくとして、NWAなど数々のメジャーなタイトル戦の開催や、NWA公認の数多くのタイトルの新設(もしくは復活)、そしてアメリカでも実現不可能といわれた豪華な企画やマッチメークが出来たのは、まさに当時の「馬場・全日本」だからこそ成し得たものだった(そんな馬場も90年代に入ると「プロレスは日本の方がレベルが上」「今さらNWAでもないでしょう」と公言するようになる)。
無論、こうした豪華でグローバルなイメージは、テレビマッチのラインナップにも強く反映された。その流れで、海外の試合(主に所属選手の海外遠征時の試合。NWAエリアが多かった)も数多く放映された。
新日本プロレスが台頭した80年代初期、定期中継は既にゴールデンタイムを外れていたが、正月や『土曜トップスペシャル』の枠において、ゴールデンタイムの特番が数回組まれたことがあった。その一方、80年代中期には全日本とジャパンプロレスとの業務提携によって、日本人同士の抗争という新機軸も盛り込んだ。番組のゴールデンタイムへの復帰が決定した際、その発表記者会見には、全日本勢だけでなく長州力を始めとしたジャパン勢も共に出席。日本人抗争をゴールデン復帰の切り札や売り物にしようとした思惑が窺えた(後述及び「前後番組の移り変わり」参照)。
その後は土曜夕方(17:30-18:24)→土曜19:00-19:54→日曜22:30-23:24(以降はローカルセールス扱い)→日曜深夜→土曜深夜→日曜深夜→水曜深夜と放送日が流動的に変化された。しかしながら馬場をはじめ、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太のプロレス四天王や秋山準、高山善廣といった、後年団体を牽引する選手たちをこの番組から育て上げた。