全学共闘会議(ぜんがくきょうとうかいぎ)は、1968年(昭和43年)ごろの大学闘争・大学紛争の時期に日本各地の大学に作られた学生運動組織あるいは運動体である。通常は略して全共闘(ぜんきょうとう)と呼ばれ、全共闘による1960年代末の一連の学生運動は全共闘運動と総称される。
目次
1 展開と終息
2 戦後最大の学生運動
3 学生たちのその後
4 全共闘内部の世代格差
5 エピソード
6 関連項目
7 外部リンク・参考文献
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全共闘運動の展開は、日本大学と東京大学に象徴される。
日大では、20億円の使途不明金問題をきっかけに、古田重二良会頭を頂点とした権威主義的な体制への不満が爆発し、1968年(昭和43年)5月23日に日大初めてのデモとなる「二百メートル・デモ」が行われ、5月27日には秋田明大を議長として日大全共闘が結成された。日大全共闘は大学内の建物をバリケード封鎖し、両国講堂で3万5千人の学生による当局との「大衆団交」(労働基本法における団体交渉になぞらえた表現)を行った。
東大では、医学部インターン問題をめぐる学生への不当処分を発端として、大学当局に対する抗議活動が高まり、安田講堂を一時占拠するなどしたあと、7月5日には山本義隆を議長として東大全共闘が結成された(詳細は東大紛争を参照)。東大全共闘も日大と同様に大学内の建物をバリケード封鎖し、当局との「大衆団交」を要求した。
全共闘は、はじめは各大学個別の問題(大学紛争)を扱う組織・運動として結成されたが、その後大学当局の硬直した対応や政府や機動隊の介入を経験する中で、既存の政治・国家の体制全体を否定するようになり、最終的には大学解体をスローガンに、学生が大学を超えて連帯し日本帝国主義体制の打倒を目指す革命運動へと性質が変わっていった。1969年(昭和44年)1月18日・19日の安田講堂攻防戦はそうした革命闘争の象徴となり、これ以後全共闘運動は全国の大学に波及したのであった。
しかし、運動が大学を超えた革命闘争となり、その手法も過激化していくにつれ、それについていけない一般学生は徐々に脱落してゆき、全共闘は新左翼各党派のセクト色が強くなっていった。1969年(昭和44年)9月5日に日比谷野外音楽堂において結成された全国全共闘において、新左翼の献身で東大全共闘の山本義隆は議長、日大全共闘の秋田明大は副議長に就いた。この頃にはもはや当初のような自然発生的な組織・運動体としての全共闘運動の精神は失われていた。
全共闘運動は全国全共闘の結成を峠に退潮に向かい、全国の各大学の大学紛争は1969年中にほぼ収束した。ゲバ棒や投石・火炎瓶を伴った大規模な街頭闘争も1969年10月21日の佐藤首相訪米阻止闘争を最後に影を潜め、1969年(昭和44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣を支える自民党は国会での議席を増やす一方、新左翼に近い勢力を抱えた社会党は約50議席を減らして大敗した。
1970年になると全共闘運動はほとんど下火になり、安保条約が自動継続となる1970年6月には各地の大学で授業放棄などが行われ、大規模な街頭闘争もみられたが、ごく短期の盛り上がりに過ぎなかった。
1970年代に入ると、新左翼党派間で内ゲバが頻発したほか、赤軍派によるよど号ハイジャック事件や、連合赤軍によるリンチ事件および浅間山荘事件などの過激な運動によって急進的な学生運動は急速に支持を失い、全共闘は事実上崩壊した。内ゲバについては公安警察が左翼運動の自滅を図って裏で手引きしたものも少なくない。1980年(昭和55年)の時点において全共闘が存在し、学生会館を自主管理していた法政大学の場合などは、当時しばしば「学生運動のガラパゴス」「全共闘の生きた化石」と言われていた。「自派主導」ではない運動には一貫して消極的だった革マル派も全共闘運動には当初は積極的に関与したが、「安田講堂攻防戦」において革マル派が担当した建物を機動隊が来る直前に突然退去してしまったことから、全国の全共闘運動から革マル派は排除されることになる。
全共闘の最大の特徴は、その組織・運動の大きさである。全共闘は、それまでの全学連のように各学部の学生自治会を基盤にするのではなく、学部や政治的党派(セクト)の垣根を越える組織として作られた。これにより、5流13派とも言われた新左翼各党派だけでなく、組織や党派に属さないノンセクト・ラジカルと呼ばれる一般学生たちが広く連帯し、特定党派の指導やイデオロギーに制約されないアナーキー的な反逆あるいは一揆的爆発のような雰囲気の中で、大規模な運動が展開された。
実際、全共闘運動には、60年安保闘争からの流れを汲むブント(第二次ブント)をはじめ、反スターリン主義派の革共同中核派や革マル派、レーニン主義批判を掲げる社青同解放派、トロツキズムの第四インター、ソ連派の民学同、毛沢東主義の共産同ML派-学生解放戦線や日共左派、構造改革派のプロ学同やフロント、反マルクス主義のアナキスト革命連合や無政府共産主義者同盟のアナーキストの各グループ、さらにベ平連など(東大においては創価学会系の新学生同盟も)、また青年民族派など、方針を異にするさまざまな組織・党派が参加しており、一部で各党派による組織化と指導争いが激しく展開されたものの、その多様性や多元性から、一元的な指導や特定のイデオロギーはほとんど存在しえず実存的活動と見なされ、ベトナム反戦と各大学の管理体制への反発の高まりの中で、全共闘は外部から見ればあたかも自然発生的に生まれたもののように見えた。