先島諸島(さきしましょとう)は、日本の南西諸島に属する琉球諸島のうち、宮古列島・八重山列島の総称である。沖縄県に所属し、南西諸島(琉球諸島)の南西部に位置する。
14世紀から15世紀に沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年に石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。
1609年、薩摩国の島津氏による琉球王国侵攻以降、薩摩の過酷な搾取に窮した琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入し、ここから搾取した。このため、先島の各地には子供や妊婦を処分する遺構が残されている。
明治維新後の琉球処分によって沖縄県が新設されるが、清との間に琉球の領有権問題が発生し、大日本帝国政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに先島諸島の割譲を提案した。清も一度は応じ、仮調印したが、李鴻章の反対によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。日清戦争の結果、旧琉球王国領の全域が日本領であることを清は事実上認めざるを得なくなり、先島割譲は免れた。
大日本帝国政府による近代化は本土や沖縄本島よりもかなり遅れ、人頭税を中心とした王国の制度は20世紀初頭まで温存された。また1937年まで日本標準時より1時間遅い西部標準時が適用されていた。沖縄本島とは違って太平洋戦争の戦場にはならなかったものの、1945年に入ると激しい空襲と艦砲射撃を受け、6月以降には八重山諸島で山岳地帯や西表島などマラリア危険地域への移住命令が出され、マラリアによる死者が多数出た。さらに本島の大日本帝国陸軍が壊滅すると、軍、行政ともに機能が停止し、指揮系統が切断された守備隊の一部が畑から作物を盗んだり、島民に暴力を振るうなどしたため、石垣島の住民は自警団を結成してこれに対抗し、さらにこれを発展させて12月15日に「八重山自治会」を発足させた[1]。一方アメリカ軍は11月26日告示された「米国海軍軍政府布告第1-A号」を12月8日に宮古島で、12月23日に石垣島で公布、軍政樹立を宣言し、宮古支庁、八重山支庁を復活させた[2]。1952年の日本国との平和条約によって国際法上も米軍統治下におかれることが確認された。
1972年の沖縄返還に伴って、日本国の主権が回復した。アメリカ軍統治下で与那国島の上空には防空識別圏の境界線が引かれ、日本への返還後も島の領空の西3分の1は台湾の管制区域となっている。しかし、2006年、台湾側が識別圏から台湾寄りの海上に設定した境界線で運用していることが明らかになり、外務省は「防空上の問題は事実上生じない」という立場をとっている。
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^ 後にこれを「八重山共和国」と呼ぶ俗称が現れた(桝田武宗『八重山共和国』筑摩書房、1990年など)が、「八重山自治会」は国際的な国家承認を求めたわけではなく、「八重山共和国」という呼称は当時の権力空白による政治状況を表現する比喩として理解すべきものである。
^ 以上太平洋戦争末期から米軍軍政開始までの状況については大田靜男『八重山戦後史』(ひるぎ社、1985年)、37-71ページによる。
関連項目
日本列島 - 南西諸島 - 琉球諸島
沖縄県の歴史
奄美諸島の歴史
鹿児島の歴史
琉球諸島
沖縄諸島
八重山列島
八重山自治会
表・話・編・歴宮古諸島
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