元禄小判(げんろくこばん)とは元禄8年(1695年)9月に慶長小判についで発行された一両としての額面を持つ小判である。また元禄小判、元禄一分判および元禄二朱判を総称して元禄金(げんろくきん)あるいは元字金(げんじきん)と呼ぶ。
表面には鏨による茣蓙目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹兩」下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、吹所の験極印さらに花押の左に「元」字が打印されている。
目次
1 略史
2 元禄小判の量目および品位
3 元禄小判の鋳造量
4 参考文献
5 関連項目
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佐渡金山などからの産金は寛永年間を過ぎると衰退し始め、加えて、生糸貿易などにより金銀の流出し、新井白石の『本朝寳貨通用事略』によれば慶安元年(1648年)より宝永5年(1708年)までの61年間に金2,397,600両余、銀374,209貫余としている。また、江戸時代初期から、慶安元年までの流出高については、詳しい記録がないが、白石が慶安年間以降の数値を元に推定した値によれば、江戸時代初期から宝永5年までに、金6,192,800両余、銀1,122,687貫余としている。その数値の信憑性はともかく、金銀の流出高は多額に上ったことになる。加えて人口増加に伴う経済発展から通貨不足が顕著になり始める。
そこで勘定奉行の荻原重秀は貨幣の金銀含有量を下げ、通貨量を増大させる貨幣吹き替え(改鋳)を行った。これは品位を低下させるものであるため、その秘密保持の観点から、慶長期には手前吹き方式であった貨幣鋳造法を、小判師を金座に集めて鋳造を行わせる直吹方式に変更することとなった。すなわち慶長小判2枚の地金に銀を加えて新たに小判3枚を鋳造すれば通貨量は1.5倍となり、かつ幕府には吹き替えによる出目すなわち利益が得られるというものであった。しかし交換に際し慶長金に対し1%の増歩しか付けられなかったため、交換は進捗せず、良質の慶長金を退蔵するものが多かったという。元禄金は量目(質量)こそ慶長金に等しかったが、金に対し密度の低い銀を多く含むため分厚いものとなり、白っぽいものとなったため品位が低下したことは誰の目にも明らかであった。加えて脆く折れやすいものとなったため、評判は甚だ悪いものであった。
しかし、通貨量増大が経済発展に見合うものであったため、顕著な物価高騰はなく経済は安定した。また元禄の吹き替えによる幕府の利益は500万両を超えたと推定されている。
また元禄10年(1697年)にはそれまでの一分判に加えて、慶長金には存在しなかった二朱判を鋳造し、これは小判と等品位かつ1/8の量目のもので、小額の取引には重宝するものであった。しかも二朱判への両替は元禄金に限定し、この元禄金の優位性から慶長金の回収を図ろうとする幕府の目論見でもあった。
規定量目は慶長小判と同じく四匁七分六厘(17.84グラム)である。
規定品位は七十六匁七分位(金57.37%)、銀42.63%である。
明治時代、造幣局により江戸時代の貨幣の分析が行われた。元禄小判についてその結果は以下の通りであった。
金56.41%
銀43.19%
雑0.40%
雑分は銅、鉛、イリジウムなどである。 このような銀含有量の多い合金は青みを帯びた淡黄色を呈するため、表面を金色に見せる、色揚げが行われた。すなわち、小判に食塩、焔硝(硝酸カリウム)、緑礬(硫酸鉄)、丹礬(硫酸銅)および薫陸を梅酢で溶いた物を小判に塗り、炭火で焙ることを繰り返す操作であった。これは硫酸鉄などの高温における加水分解で生じた硫酸の作用で生成した塩酸および硝酸が金属に作用し、表面に塩化銀を生成させて銀を除去するというイオン化傾向、および合金固相中における拡散を巧妙に利用した技術であった。
『吹塵録』によれば、小判および一分判の合計で13,936,220両1分である。
参考文献
『日本の貨幣』 小葉田淳、至文堂、1958年
『造幣局百年史(資料編)』 大蔵省造幣局、1971年
『江戸の貨幣物語』 三上隆三、東洋経済新聞社、1996年
『日本の貨幣の歴史』 滝沢武雄、吉川弘文館、1996年
『日本史小百科「貨幣」』 瀧澤武雄,西脇康、東京堂出版、1999年
1710年/宝永7年
宝永小判
カテゴリ: 日本の硬貨 | 金貨
更新日時:2008年8月23日(土)07:16
取得日時:2008/11/01 21:46