倭館(わかん、??)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。文禄・慶長の役(朝鮮出兵。韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱と呼称)以前は複数箇所存在したが、江戸時代には釜山に限定され、日本側は対馬藩が朝鮮との外交、通商を行った。
目次
1 中世倭館
1.1 三浦倭館
1.1.1 富山浦倭館
1.1.2 乃而浦倭館
1.1.3 塩浦倭館
1.2 ソウルの倭館
2 近世倭館
2.1 豆毛浦倭館
2.2 草梁倭館
3 倭館における交易
4 倭館の終焉
5 現存の倭館地名
6 関連項目
7 参考文献
8 外部リンク
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1392年に成立した李氏朝鮮は、1368年に成立した明とは異なり、朝貢船以外の商船入港を禁止するようなことはなく、入港地にも一切制限を加えなかった。このため、日本の大名、商人らが朝鮮に通交する者が急増したが、彼らの中には交易に不都合があると倭寇に変貌するような者もいたので、朝鮮政府は1407年頃国防上の見地から日本商船(興利倭船)の入港地を慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)と慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道鎮海市)に限定した。その後、日本の使送船(公式の使者)の入港地もこれら二港に限定された。
当時朝鮮貿易に大きな利権を持っていた対馬の早田左衛門太郎は1426年、慶尚左右道各地で任意に交易できるようにして欲しいと朝鮮政府に訴えたが、拒否され、代償として蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)が入港地に追加された。
これらの港は当初日本船の入港指定地に過ぎなかったが、やがて多数の日本人が住み着くようになり、朝鮮政府はこれを制止できなかった。これが三浦倭館である。
倭館に住居する日本人を朝鮮では恒居倭と呼び、居留地内では首領を頭とする自治が行われた。恒居倭のなかには漁業や農業に従事したり、朝鮮の農村に行商に赴く者もいた。しかし日本人商人には営業税、耕作者には田地税が課税された。朝鮮側のさまざまな規制が煩わしく、交易上のトラブルもあって、1510年には対馬から援軍も駆けつけて大規模な日本人の反乱がおこった。この三浦の乱は結局、朝鮮側の武力によって鎮圧され、三浦倭館は閉鎖されたが、後に一部再開された。
後には釜山浦倭館とも呼ばれた。現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱(トンネ)県城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にあった。1494年には450人程度の日本人が居住していた。1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開された。釜山浦倭館は1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続し、三浦倭館のなかでは最も長く日本人が住んでいた。
薺浦倭館ともいい、現在の慶尚南道鎮海市薺徳洞槐井里にあった。当時は北方にある熊川県が管轄していた。三浦のうち最も大きなもので、1494年の在住日本人人口は2,500人に達した。 日本人側は朝鮮との居留人数に関する約定を破ったため朝鮮側が送還するなどしたが、いつのまにかまた増えるという状態であった。1510年には朝鮮側が制裁として貿易統制を加えたことによって三浦の乱が発生。一旦閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって再開され、1544年の倭寇事件で再び閉鎖され、復活しなかった。
現在の蔚山広域市中区塩浦洞に所在した。蔚山旧市街から湾を隔てた南岸にあり、現代自動車工場敷地となっている。当時は蔚山旧市街に置かれた蔚山郡庁と慶尚左道兵馬節度使の管轄下にあった。1426年に開港され、1494年には約150人の日本人が住み、1510年の三浦の乱によって閉鎖され、二度と復活しなかった。三浦倭館の中では最も小規模で、存続期間も短かった。
李氏朝鮮の都・漢城(現在のソウル)にも通交を求めてくる日本の大名や商人を接待するための施設「東平館」が存在し、倭館と通称された。これは純然たる接待施設で、日本人が常に在住する居留地ではない。この倭館があった場所は倭館洞としてソウルの地名となり、20世紀始めまで続いた。植民地時代には大和(やまと)町と改称され、現在のソウル特別市中区忠武路である。
1592年に始まる文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶し、戦争直後対馬藩が送った貿易再開を求める使者が帰ってこないことが多かった。しかし朝鮮人捕虜を送還するなど対馬藩の必死の努力によって、1607年最初の朝鮮通信使が来日し、国交回復が決まった。対馬藩は江戸幕府から朝鮮外交担当を命じられ、釜山に新設された倭館における朝鮮交易の独占権も付与された。1609年に締結された己酉条約によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた。
1607年、現在の釜山広域市東区佐川洞付近に新設された倭館で、約1万坪の面積があった。古倭館ともいう。内部には宴享庁(使者の応接所)を中心に館主家、客館、東向寺、日本側の番所、酒屋、その他日本家屋が対馬藩によって建築された。1647年には対馬藩が任命した館主が常駐するようになったが、交易の発展にともない豆毛浦倭館は手狭になり、交通も不便であったので、朝鮮側に再三移転要求を行った。