倭・倭人関連の中国文献
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倭・倭人関連の中国文献(わ・わじんかんれんのちゅうごくぶんけん)は、倭人や倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。
概要

の文字の初出は、正史後漢初頭に書かれた『漢書』地理志(班固)であり、正史以外では『論衡』(王充)がある。

漢書』では、朝鮮半島の南の海の中にあると書いており、『論衡』では、越常が併記され、は中国の南の呉越地方揚子江の下流域の南付近)と関連があると推定しているようである。『晋書』や『梁書』などでは「太伯之後」と記し、倭人の祖である太伯の子孫と自称していたことを記録している。

現在残されている中国の文献には266年から413年にかけて倭国に関する記述がないことから、日本では4世紀を「空白の4世紀」と呼ぶ[1]
『論衡』.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。論衡

論衡倭人について、

時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時、天下は太平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

とみえる。

代は日本縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、周の成王の在位は前1042年?前1021年とされるが、『論衡』自体はかなり後の後漢の時代の1世紀に書かれたものである。なお、暢草には、霊芝ウコン、香花草等の説がある。
『山海経』中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。山海經

山海経』第十二「海内北経」

「蓋國在鉅南 倭北 倭屬
蓋国は鉅の南、倭の北にあり。 倭はに属す。

倭はに朝貢していたと考えられていたことがわかる。ただし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっており、「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。この黒歯国と倭が関連付けられている記載として、以下のものがある。

三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)
「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」
女王(卑弥呼)国を去ること4000余里(4000里前後)に裸国が有り、また黒歯国が在り、(裸国から)東南に船でおよそ一年である。

梁書』巻五十四 列伝第四十八 諸夷伝 東夷条 倭
「其南有侏儒國 人長三四尺 又南K齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 」
その(女王国の)南に侏儒国が有り、(侏儒国の)人の身長は三四尺(古代中国の1尺は、隋までは23cm前後なので、三四尺は23cm×3≒70cm?23cm×4≒90cm)である。また南に黒歯国と裸国があり、倭を去ること4000余里(4000里前後)、船でおよそ一年で至る。
『漢書』中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。漢書/卷028下

中国正史倭人の文字の初出は『漢書』地理志である。

漢書』地理志地条

東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫! 樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。

然して東夷は天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。それ、以(ゆゑ)有るかな! 楽浪海中に倭人有り、 分れて百余国を為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

一方、東夷は性質が柔順であり、他の三方(西戎南蛮北狄)と異なる。そのため、孔子は、中国の中原では正しい道理が行われていないことを残念に思い、(筏で)海を渡って九夷に行きたいと望んだ。それは理にかなっている! 楽浪郡の先の海の中に倭人がいて、百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来た、と言われている。

また、の南方にあったの地理を記す「呉地」の条に、東?人の記事がある。

漢書』地理志地条

會稽海外有東?人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云

会稽の海の外に東?人有り。分ちて二十余国を為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

会稽の海の外に東?人有り。二十数カ国にわかれており、定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。

「?(テイ)」には、ナマズ説と説がある。記紀に年魚と記される。

東?人と倭人が同じ人々を指すのかどうかについては不詳であるが、谷川健一は、「わが列島の中に「東?人」の国を求めるとすれば、阿蘇山の周辺をおいてほかにないと私は考える」と記している[2]
『後漢書』ウィキソースに後漢書倭伝の原文があります。

後漢書』東夷伝

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
 建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす

「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
 安帝永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う

倭奴国(の王)は、(朝鮮半島中部の楽浪郡を介して)、後漢の都の洛陽にまで使人(高官)をはるばる派遣し、朝貢した。光武帝によって授けられた金印倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾志賀島で掘り出されたものとされている。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国か)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)国王と読む説もある。

一方、中国の史書では、「倭奴国」は「倭国」の旧称と記されている。

北史』倭国伝
安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。後漢安帝の時(106?125年)、また遣(使)朝貢した、これを「倭奴国」という

隋書』倭国伝
安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國後漢安帝の時(106?125年)、また遣使朝貢した、これを「倭奴国」という

旧唐書』倭国・日本国伝
倭國者、古倭奴國也。倭国とは、古の「倭奴国」なり

この後は倭国大乱卑弥呼の記事があり、『三国志』の『書』東夷伝の倭人条(魏志倭人伝)に似ているが、「大乱」の時期を「桓霊間」(桓帝霊帝の時代)と具体的に記すなど相違点もある。魏志「東夷伝」にはこの他、『漢書』地理志から引用したと見られる「東?人」の記事、『三国志』の『書』孫権伝から引用したと見られる夷洲と亶洲(「?洲」と誤記)の記事もある。

「冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出」
檀石槐伝

『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東?倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」[注釈 1]詳細は「檀石槐」を参照
『魏志』倭人伝ウィキソースに魏志倭人伝の原文があります。

三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)

「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」

倭人は帯方郡[注釈 2]の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国

東夷伝には、夫余高句麗東沃沮?婁?馬韓辰韓弁辰・倭人の九条が含まれている。


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