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佐野 実(さの みのる、1951年4月4日 - )は神奈川県横浜市戸塚区出身のラーメン屋「支那そばや」店主。有限会社「サノフーズ」代表取締役。別名ラーメンの鬼。ポマードで固めたオールバックの髪型と鋭い眼光、腕組みのポーズがトレードマーク。
目次
1 経歴
2 拘り・支那そばやの特殊性
3 マスメディアでの佐野
4 関連項目
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4人兄妹の次男として生まれる。佐野によると、母親は彼が胎内にいたころ必ずと言っていいほどラーメンを食べ、「母はラーメンが胎教代わりになっていた」という。幼少のころから「ラーメン屋か寿司屋になりたかった」と言っていた。友達をブランコから突き飛ばして幼稚園を退園処分になった事がある。小中学校時代は、新聞配達や牛乳配達のアルバイトをして苦しい家庭を支えていた。
私立藤沢商業高等学校(現・藤沢翔陵高等学校)では野球部に所属し、投手としてプロ野球を目指した。しかし、チームメイトには後に読売ジャイアンツなどで活躍した小俣進がいたため出番に恵まれず、プロ野球への夢を諦めた。
高校卒業後、洋食レストランでコックの修行を始める。そのレストランに修飾したきっかけは、カレーライスが3週間毎日通い詰めるほど美味しかったからだという。27歳で店長になり、18年間勤めた後に退職。1986年、湯河原で1週間修業し、藤沢市鵠沼海岸7丁目に「支那そばや」を開業。開店当初は全く儲からず、厨房で涙を拭った事もあるという(その後、この鵠沼本店は佐野の弟子が経営していたが、2004年に閉店している)。
「支那そばや」を開業した頃に13歳年下の女性と結婚したが、数年後に離婚。その後再婚。佐野がラーメンの世界で唯一尊敬している人物は、東京池袋にあった「大勝軒(東池袋大勝軒)」店主の山岸一雄である。
現在、2000年に出店した新横浜ラーメン博物館内の店舗が唯一の佐野直営店として営業している。
「支那そばや」の店内では、私語・香水・喫煙・携帯電話の使用等が禁止されている(ちなみに本人は大のタバコ好き)。短気ですぐ「キレる」うえ、食材選びに厳しい為、ラーメンの鬼と称されている。
麺は自家製麺を使用しており、新たな麺の開発にも積極的である。佐野が開発した「絹越和伊麺」(きぬこしわいめん)は、原料として、パスタで使われるデュラム・セモリナ粉と国産小麦をブレンドしたものを用いている。また、黒小麦をブレンドした小麦粉で作った麺も開発している。出来立ての麺は木箱に入れ、入れてから2-4分間、少し蓋を開けておき、ある程度の温度まで下げる。その後、高湿冷蔵庫(通常は蕎麦屋で使われる)でひと晩保管して熟成させる。
メニューに「ラーメン」ではなく「支那そば」と表記したのは「ラーメンという新しい印象のネーミングより支那そばというネーミングの方が愛着があったから」だという。
テレビで初めて佐野が取り上げられたのは、1998年4月にスタートしたテレビ東京の愛の貧乏脱出大作戦である。横浜ラーメンの達人としてクローズアップされた。
1999年から2003年にかけてTBSで放送されていたバラエティー番組「ガチンコ!」の企画「ガチンコラーメン道」で、ラーメン職人を育てるための指導者に抜擢されたことで一躍有名になった。同番組では、出演者を激しく叱咤したり、冷水をかけたり、ことあるごとにスープを捨てたりしていた(食品を粗末にする行動で放送倫理委員会から抗議が相次いだという)。ラーメンの鬼と呼ばれるのはこれらの言動の影響も大きい。一方、出演者が作ったラーメンの出来がよかった時には誉めるシーンも見られた。
他のバラエティ番組ではひょうきんな一面を見せている。また、ラーメン関連の番組に出演する際も、「キレる」ことをギャグ的要素として使っていることもある。ラーメンを批評する際には具材の事を取り上げる事が多いが、美味いラーメンを食した時には素直にその味を認める。
関連項目
チャルメラ - 明星食品から発売されているインスタントラーメン「チャルメラ」に期間限定で佐野実シリーズが発売されていた
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の料理人 | 1951年生 | 神奈川県出身の人物 | ラーメン
更新日時:2008年9月1日(月)12:52
取得日時:2008/09/02 14:35