旧・住吉村のデータ廃止日1950年4月1日廃止
廃止理由編入合併
住吉村,御影町,魚崎町 → 神戸市
現在の自治体神戸市東灘区,灘区
廃止時点のデータ
国 日本
地方近畿地方
都道府県兵庫県
郡武庫郡
団体コード
面積km?.
総人口'人
()
隣接自治体御影町,神戸市灘区,兵庫区,魚崎町,本山村
村の木
村の花
住吉村役場
所在地 兵庫県
武庫郡住吉村
電話番号
外部リンク
位置
■テンプレート (■ノート ■解説) ■日本の市町村PJ
住吉村(すみよしむら)は、1889年(明治22年)4月1日から1950年(昭和25年)4月1日に神戸市と合併するまで存在した村である。 村域は現在の東灘区住吉本町、住吉東町、住吉宮町、住吉南町、住吉浜町、住吉山手、渦森台、住吉台、鴨子ヶ原の一部および灘区六甲山町の一部に相当する。
1889年(明治22年)、政府より前年に公布された「市制・町村制」の施行に基づいて、現在の神戸市東灘区の前身である御影町、住吉村、魚崎村、本庄村、本山村の五つの町村が誕生した。
日本最大の経済都市であった大阪と東洋最大の港湾都市・神戸の中間に位置するこの地に、明治後期から昭和前期にかけて阪神間の富豪がこぞって大邸宅を建てたことから「日本一の長者村」と呼ばれていた。この住吉村の豪壮な邸宅群は、一つが数千坪から数万坪という単位で、芦屋市六麓荘町や大田区田園調布を遙かにしのぐスケールである。現在も数多くの豪壮な邸宅が残る全国的にみても極めて裕福な土地柄である。阪神間モダニズムとして知られる華やかな生活スタイルは、この住吉界隈を発祥の地として現在まで受け継がれている。
目次
1 日本一の長者村、御影・住吉の成立
2 学校
3 観音林倶楽部
4 病院
5 合併
5.1 沿革
6 関連項目
7 参考文献
8 外部リンク
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この地域が優れた住宅地として発展する原因となったのは、明治7年の官営鉄道の開通にともない設けられた住吉駅に起因する。その具体的な出現は、明治30年代の中頃から、大阪の富商たちが、大阪市内の居住環境の悪化にともない、郊外への転出を意識したことにはじまる。
明治33年、朝日新聞創刊者の村山龍平は、御影町郡家に数千坪の土地を取得する。明治38年には、住友銀行の初代支配人であった田辺貞吉が、住吉村反高林(たんたかばやし)に二千坪をこえる土地を取得し、住友家の総理事を務めた鈴木馬左也も明治38年御影町郡家にかなりの土地を取得している。
この動きに呼応するように阿部元太郎(のちの日本住宅株式会社社長)は、明治40年頃から住吉川に沿う観音林・反高林の土地の分譲を開始した。ただ、この地域の土地所有権は住吉村に属して基本的に土地の分譲をしていなかったので、ほとんどは、地上権の分譲ではないのかと思われる。いずれにしてもこのような動きは、この地域の住宅地化を急速に進行させるものであった。
阿部元太郎が分譲した反高林の土地の一部は、のちに東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得している。さらに岩井商店主・岩井勝次郎も明治38年御影町郡家兼安の土地を取得しており、大日本紡績創業者の田代重右衛門も同45年、住吉亜雨ノ神に居宅を構えることになった。
このような人々の土地取得の規模は、単位が一千坪前後を下らないものであり、各邸宅はいずれも豪壮な建築ばかりで、この地域にこれだけ密度が高く建つ例は、全国的にみても少ない。
このほか、この地域に建った邸宅としては、大阪茶臼山から移転してきた住友家本邸(住吉村反高林、大正14年)、大日本紡績社長・小寺源吾邸(住吉村牛神前、大正元年)、鐘紡社長・武藤山治邸(住吉村小坂山、大正中頃)、日本生命創業者・弘世助三郎邸(住吉村牛神、明治41年)などの和風邸宅があった。
さらに洋風邸宅を加えると、野村財閥の野村徳七邸(住吉村小林、大正10年)、大林組社長・大林義雄邸(御影町上ノ山、昭和7年)、野村銀行社長・野村元五郎邸(住吉村観音林、昭和7年)、尼崎紡績の監査役で小寺源吾の養父であった小寺成蔵家を継いだ関西学院大学教授・小寺敬一郎邸(住吉村手崎、昭和5年)、海運業の広海商事社長・広海二三郎邸(住吉村川向、昭和14年)、乾汽船社長・乾新兵衛邸(住吉村井手口、昭和11年)、大阪の大地主和田久左衛門邸(住吉村小坂山、昭和7年)、武田薬品工業社長・武田長兵衛邸(住吉村手崎、昭和7年)、住友義輝邸(住吉村手神東、昭和7年)などいずれも密度の高い規模の大きな邸宅群でこれらが御影・住吉の緑の多い六甲山麓の恵まれた環境のなかに点在していた。