伊予松山藩
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松山藩(まつやまはん)は江戸時代伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に久米郡野間郡伊予郡などを領有した。藩庁は松山城現存天守:松山城大天守(重要文化財
目次

1 歴史

2 俳句

3 歴代藩主

3.1 加藤(かとう)家

3.2 蒲生(がもう)家

3.3 松平(まつだいら)〔久松(ひさまつ)〕家


4 支藩

4.1 歴代藩主


5 関連項目

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歴史

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにて東軍徳川氏に味方した加藤嘉明外様)が20万石で立藩。寛永4年(1627年陸奥国会津藩42万石に加転封される。

同年(寛永4年)代わって、出羽国上山藩より蒲生忠知(外様)が24万石で入封。寛永11年(1634年嗣子無く死去のため蒲生氏は断絶した。

寛永12年(1635年)、伊勢国桑名藩より松平定行親藩)が15万石で入封し明治維新まで続く。

江戸初期には経済的には豊かであったが、寛文延宝年間(1661年 - 1680年)に干ばつ・洪水などの飢饉に見舞われ、それ以後は財政難が続いた。特に5代定英享保17年(1732年)の享保の大飢饉では領民の餓死者は3,500人にのぼる甚大な打撃を受けた。この餓死者の中に藩士は1人も含まれていなかった。定英は領民を蔑ろにしたとして、幕府より「裁許不行届」と咎められ差控え(謹慎)の処分を下された。

このような財政難の中、12代藩主勝喜天明4年(1784年)に落雷により焼失した松山城天守を、安政元年(1854年)に再建している。

幕末は親藩のため幕府方につき、特に長州征伐では先鋒を任され出兵。財政難の極致に陥った。14代定昭は藩主になるや老中に就任。大政奉還後、辞職している。慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは朝敵として追討されたが戦わず恭順し、財政難の中15万両を朝廷に献上し、藩主も定昭から元藩主である勝成を再勤させ赦された。また、その後、明治政府より「松平」の姓から旧姓である「久松」に復するよう命が下った。 明治4年(1871年廃藩置県により松山県となる。のち石鉄県を経て愛媛県に編入された。

藩主家は明治17年(1887年伯爵となり華族に列した。


俳句

4代定直俳諧を嗜んだ。その後、安永年間(1772年 - 1781年)になると一般にも普及し領内での俳諧が盛んになった。更 に明治時代になると藩士の子弟から正岡子規高浜虚子を輩出し、現代俳句へと発展した。

子規が松山に帰郷した際、昔を懐かしみ詠んだ次の句の碑が、JR松山駅前に建っている。春や昔 十五万石の 城下かな


歴代藩主


加藤(かとう)家

外様 20万石 (1600年 - 1627年)
嘉明(よしあき)〔従四位下、左馬頭〕


蒲生(がもう)家

外様 24万石 (1627年 - 1634年)
忠知(ただちか)〔従四位下、中務大輔・侍従〕


松平(まつだいら)〔久松(ひさまつ)〕家

親藩・御家門 15万石 (1635年 - 1871年)
定行(さだゆき)〔従四位下、隠岐守・侍従〕(長崎探題職)

定頼(さだより)〔従四位下、隠岐守〕

定長(さだなが)〔従四位下、隠岐守〕

定直(さだなお)〔従四位下、隠岐守・侍従〕

定英(さだひで)〔従四位下、隠岐守〕

定喬(さだたか)〔従四位下、隠岐守・侍従〕


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki