五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)とは、明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇(当時15歳)が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下では御誓文と表記する。
目次
1 歴史
1.1 起草の過程
1.2 儀式と布告
1.3 政体書体制での御誓文
1.4 御誓文の復活
1.5 自由民権運動と御誓文
1.6 戦後の御誓文
2 内容
2.1 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
2.2 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
2.3 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
2.4 一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
2.5 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
2.6 勅語
2.7 奉答書
3 備考
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
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明治新政府は発足当初から公議を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年正月、福井藩出身の参与由利公正が、坂本龍馬の船中八策と似ている部分が多い議事之体大意五箇条を起案し、参与東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。
制度取調参与の福岡孝弟は、この由利五箇条に対して第一条冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も会盟に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり王政復古の理念に反するという批判にさらされた。
そこで、総裁局顧問の木戸孝允が、天皇が天神地祗(てんじんちぎ)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いている状態で共に誓いかつ全員が署名するという形式を提案し、採用されることとなった。その際、木戸孝允は、福岡案第一条の「列侯会議を興し」を「広ク会議ヲ興シ」に改め、「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して木戸最終案第四条を新たに組み込み、五箇条の順序を体裁良く整え直すなどして大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、議定兼副総裁の三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」「御誓文」「五箇条誓文」「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。この木戸五箇条が天下に布告すべき日本の国是として明治天皇の裁可を受け、1868年(慶応4年)3月14日、朝廷の規模の大きさを天下に確定させんとする木戸の狙い通り、誓約された。木戸は後日、「天下の候伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている。[1]
御誓文は明治天皇の勅命によって、3月13日に天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫され、翌3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿で行われた天神地祇御誓祭という儀式によって示された。
天神地祇御誓祭の前には、天皇の書簡である御宸翰が披瀝されている。 同日正午、在京の公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人づつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。
御誓文は太政官日誌をもって一般に布告された。太政官日誌には ⇒御誓文之御写が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文や御宸翰が掲載された。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に発売されていたが、各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、キリスト教の禁止など幕府の旧来の政策を踏襲する五榜の掲示が出された。