二宮忠八
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二宮忠八(にのみやちゅうはち、慶応2年6月20日1866年7月20日)- 昭和11年(1936年4月8日)は明治時代技術者航空機研究者。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)出身。
目次

1 経歴

1.1 生い立ち

1.2 飛行への着想

1.3 遅かった評価


2 世界航空機史上における位置付け

3 近年の見解

4 その他

5 出典

6 関連小説

7 関連項目

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経歴


生い立ち

八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗し、また2人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八が12歳のときに若くして亡くなってしまったために、家は困窮した。このため忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したというが、この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった。


飛行への着想

明治20年(1887年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。そうしたある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、そのカラスが羽ばたいていないのに気付く。そして忠八は、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛ぶことができるのではないかと考えたのである(固定翼の着想)。

それを基に忠八は、模型飛行機を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。明治24年(1891年4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。これは無尾翼の複葉機で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦翼面として働く設計だった[1]。烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていたが、動力源については未解決であった。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での飛行機の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は軍を退役し、まずは飛行機製作の資金を作ってそれから独力で研究することを選んだ。

大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて明治39年(1906年)に支社長にまで昇進する。この時期は飛行機の開発の資金をまかなうことはできず、ほかにスポンサーも現れなかったため開発は停滞した。この間、明治36年(1903年12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行機への情熱を持ち続けていた。

支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開する。飛行機の動力については、従軍当時に新聞記事でオートバイガソリンエンジンを知ってから、これを利用できないかと考えていた忠八は、明治41年(1908年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、忠八は12馬力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」と同じ出力である)を自作する構想を立てた。そんな矢先にライト兄弟の飛行機の存在を知るところとなる。忠八は、動力源以外完成していた飛行機の開発を取りやめてしまい、薬の製造の仕事にうちこむようになった。ただし、機体の重量が重過ぎるため、完成しても飛べたかは疑問視されている。


遅かった評価

大正8年(1919年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)白川義則と懇談した際に、忠八は以前却下された飛行機の上申があったことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいものであることがわかった。

こうしてようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰し、その後も数々の表彰を受けた。大正14年(1925年)9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、大正15年(1926年)5月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章をたまい、昭和2年(1927年)、勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載せられた。既に陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。

忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。

晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した。



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mango