九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)は、羽柴秀吉と島津氏の軍との戦いである
目次
1 島津氏の九州統一
2 経過
3 影響
4 関連項目
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九州征伐
戦争:九州征伐
年月日:(1585年〜1587年)
場所:九州全土
結果:羽柴軍(豊臣軍)の勝利
交戦勢力
羽柴軍島津軍
指揮官
羽柴秀吉
羽柴秀長島津義久
戦力
200000人〜220000人20000人〜30000人
損害
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九州地方は当時、薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配が緩んだ筑後の諸国人衆も傘下に収め、九州統一目前まで進んでいた。 豊後の大友宗麟は、その島津氏の圧迫を回避するため、当時近畿、四国、中国を平定し天下統一の道を歩んでいた秀吉に助けを求めることになる。
これを受け秀吉は、1585年(天正13年)10月島津氏に降伏を勧告するが(惣無事令)、島津氏はこれを拒絶した事から始まる。
島津氏は、九州統一の総仕上げとして、大友氏所領である豊前・豊後と筑前への侵攻を開始した。 秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたかった島津義弘は1586年(天正14年)6月筑前侵攻を開始、筑前の西半を制圧する。残るは高橋紹運の守る岩屋城、立花宗茂の守る立花城、高橋統増の守る宝満山城のみであった。7月、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが(岩屋城の戦い)攻めあぐねた末、高橋紹運の玉砕の後なんとか攻略する。島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す大誤算だった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め包囲を解き、豊後侵攻へ方針を転換した。この際立花宗茂は撤退する島津軍を追い高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還している。
一方、秀吉は同年9月に毛利氏に出陣を命じ豊前へ向かわす、長宗我部氏にも大友氏と合流させ作戦を開始、島津氏の豊後侵攻軍と正面衝突することとなる。最初のうちは、大友氏の内訌等もあり、島津氏優勢に進行。特に12月戸次川の戦いにおいて、仙石秀久を軍監とする豊臣方は長宗我部元親の長子信親、有力武将十河存保を失うなど大敗を喫した。島津軍は勢いづき義統が放棄した府内城を陥落させて、宗麟の守る丹生島城を包囲した。
丹生島城では、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲(石火矢)の射撃もあり、なんとか持ち堪えた。宗麟は秀吉に出馬を何度も即した後、翌1587年(天正15年)正月、秀吉は九州侵攻の軍令を下し、3月には自らも出陣、肥後方面を秀吉が、日向方面を弟秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍した。秀吉上陸を察知した島津軍は北部九州を半ば放棄、島津氏の支配が表面的な占領軍政に過ぎなかったこともあり、瞬く間に島津氏の支配している城を陥落させる。島津氏は、後退を続け薩摩の守りを固める方針に変更する。秀長率いる軍は豊後を経由し日向に入ると県を経由し山田有信の守る高城を包囲する。これを知った島津義弘は救援に向かうが根白坂の戦いで島津忠隣が戦死するなどの大敗を喫した後、高城が陥落さらに秀次は都於郡城を攻略し薩摩に侵攻する。義弘は飯野城に籠り徹底抗戦を装う。一方秀吉は秋月種実の岩石城を攻略、島原方面では有馬晴信の調略に成功する。これを知った島津忠辰は高田を放棄して出水にまで撤退する。秀吉は八代、水俣を経て島津方の予想を上回る速さで出水にまで進軍し出水城主、島津忠辰は降伏する。さらに島津忠長を蹴散らし川内、泰平寺に本陣を置く。
4月、島津義久が泰平寺に赴き降伏した。戦いが始まり半年あまりであった。島津氏は九州の大部分の支配地域は召し上げられたが、義久が下った後も、飯野城に籠った義弘、婿養子の忠隣を殺された歳久らの抵抗が続き、石田三成と伊集院忠棟による戦後処理の結果、薩摩、大隅の2国を安堵され九州征伐は終える。
秀吉は秀長を通じて戸次川の戦いで嫡男、信親を失った長宗我部元親に大隈一国を与えようとしたが固辞している。
なお、戦後の処理によって島津氏と結んでいた筑前の秋月種実が日向に移封され、大村氏との対立から長崎港の襲撃や南蛮船からの通行料徴収を強要などを繰りかえしていた深堀純賢を海賊禁止令違反として所領没収にするなどの処分が行われている。
豊臣秀吉は、西国を平定した。それにより東国の平定を目指し、関東の北条氏、奥州の伊達氏へと矛先を移した。
関連項目
日本史の出来事一覧
バテレン追放令
カテゴリ: 安土桃山時代の戦い | 九州地方の歴史
更新日時:2008年8月17日(日)09:24
取得日時:2008/08/18 14:23