丹波国(たんばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。現在の京都府中部と兵庫県東辺の一部、および大阪府高槻市の一部・大阪府豊能郡豊能町の一部にあたる。丹後国とあわせて、あるいは単独で丹州(たんしゅう)と呼ばれることがあった。延喜式での格は上国、近国。
目次
1 沿革
2 国府、一宮など
3 守護
3.1 鎌倉幕府
3.2 室町幕府
4 郡
5 行政上の呼称
6 京都丹波・兵庫丹波
7 丹波と丹後・但馬
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
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丹波ははじめ「たには」と呼び、古くは田庭・谷端・旦波とも書いた。5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされる。
丹波国南部の亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓して、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説も残っており、出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっている。[1]事実、湖だったことを示す地層も明らかになっている[2]。
6世紀ころには「丹波」の名のつく女性が天皇の后となっていることから古代より丹波の名称はあったらしい。7世紀に丹波国が成立したときの領域は、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部および中部の東辺に及んでいた。この時は現在の丹後、但馬も同国に含まれている。現在では丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもある。
年号不明であるが北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離し、後世まで長く続く領域が定まった。
丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。このため、丹波国は甲斐や尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬、篠山・氷上の兵庫丹波は但馬・摂津・播磨に密接に係わっている。
丹波国は古くより京都の出入口に当たる地理的条件から各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの支配を受けた。ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれた。そして篠村(亀岡市篠町)では、鎌倉時代末期には足利尊氏が挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変へと向う際にそれに倣ったとされるなど、時代変革の舞台ともなった。さほど有名ではないが、戦国時代に八上城の波多野氏は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともある。
江戸時代は一国を有する大名は出なかったものの一国7藩(丹波亀山藩、園部藩、綾部藩、山家藩、篠山藩(八上藩)、丹波柏原藩、福知山藩があった。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩については松平氏や青山氏を中心として譜代大名による移封が多く、藩主が老中や寺社奉行、京都所司代、大坂城代を歴任するなど徳川幕府の重視する藩であったことがわかる。
明治維新の際、桑田郡山国郷(現在の京都市右京区京北)で勤皇を標榜する山国隊が、桑田郡馬路村(現在の亀岡市馬路町)では弓箭隊が結成され、山陰道鎮撫総督西園寺公望に従って各地を転戦した。このとき、弓箭隊の郷士の息子である中川小十郎(後の立命館大学の創立者)が西園寺と出会うことになる。