丸山 眞男(まるやま まさお、 ⇒Masao Maruyama 1914年3月22日 - 1996年8月15日)は、日本人の政治学者、思想史家。専攻は日本政治思想史。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、徹底した合理主義者と評することもできる。
目次
1 経歴
2 業績
3 影響
4 エピソード
4.1 投獄経験に関して
4.2 「運動」に関して
4.3 交友関係について
4.4 趣味に関して
5 批判
5.1 批判の概要
5.2 批判者
5.3 参考文献
6 著書
6.1 単著
6.2 共著
6.3 編著
6.4 共編著
6.5 訳書
6.6 その他
7 脚注
8 外部リンク
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ジャーナリスト・丸山幹治の次男として、大阪府に生まれた。郷里は長野県。兄に芸能プロデューサー・音楽評論家の丸山鉄雄、弟に社会評論家の丸山邦男がいる。1921年には東京四谷に転居。父の友人・長谷川如是閑らの影響を受け、大正デモクラシーの潮流のなかで思想形成をおこなう。四谷第一小学校を経て、府立一中(現・都立日比谷高校)、旧制一高を卒業。1933年、一高の三年生時には長谷川を弁士とする唯物論研究会の講演に赴いたために警察に検挙され、特別高等警察の取調べを受けた。
1934年東京帝国大学法学部入学。「講座派」の思想に影響を受ける。在学中に懸賞論文のために執筆した論文「政治学に於ける国家の概念」が認められて助手となる(この論文は『戦中と戦後の間』に収められている)。1937年卒業。本来はヨーロッパ政治思想史を研究したかったが、日本政治思想史の研究を開始した。当時、日本政治思想史といえば皇国史観に基づくものが多かったが、丸山は学問としての科学的視点から研究しようと志した。日本政治思想史研究を薦めたのは指導教授である南原繁だった。南原は皇国史観に対して批判的であったが、自身がヨーロッパ思想史研究者であり、皇国史観に反論をしうる学問的素地を持たなかったことから、丸山に後事を託したとされている。
1944年、30歳の時に、東京帝国大学法学部助教授でありながら、大日本帝国陸軍二等兵として教育召集を受けた。大学の現職教授・助教授が徴兵されることは珍しく、二等兵の例は他にない。思想犯としての逮捕歴を警戒した、一種の懲罰召集であった。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年3月に再召集を受け、広島宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年8月15日に敗戦を迎え、9月に復員した[1]。なお、丸山自身は、屈辱的な軍隊体験をほとんど書き残しておらず、「上官の意向をうかがう軍隊生活は『御殿女優』のようだった」と座談会で述べた程度であった。この経験が、戦後、「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだ[2]。
戦後大学に戻り、1946年、「世界」5月号に『超国家主義の論理と心理』を発表。