中田ダイマル・ラケットとは吉本興業に所属していた漫才コンビ。
メンバー
中田ダイマル(本名:中田勇夫、1913年(大正2年)12月14日 - 1982年(昭和57年)9月5日)長崎県生まれ。
中田ラケット(本名:中田信夫、1920年(大正9年)3月3日 - 1997年(平成9年)2月5日)長崎県生まれ。
戦後の上方漫才を代表する兄弟コンビ。「爆笑王」の異名をとる。松竹芸能に所属し、後に吉本興業へ移籍した。
ダイマルは昭和初期に 旅役者の一座を経てから兄と中田松王・梅王という漫才コンビを結成。後に中田デパート・ダイマルと改名し1934年に天神橋五丁目葵席が初舞台。昭和16年に兄が病死し、工員であった弟とコンビを組み、中田ダイマル・ラケットを結成した。
戦後間もないころ 戎橋松竹の幕間の「拳闘漫才」で話題を博し、民放テレビの黎明期の1958年(昭和33年)に、朝日放送の専属タレントとなった。『お笑い街頭録音』『びっくり捕物帳』『スチャラカ社員』などの番組に出演。1978年(昭和53年)、心斎橋パルコにて、傑作ネタの数々を後世に残すために「笑学の会」主催で9月13日〜15日の3日間にわたる独演会「中田ダイマル・ラケット 爆笑三夜」を行う。
「スチャラカ社員」が終了後は一線から引き、寄席と後進の指導に当たった。
横山エンタツ・花菱アチャコ、夢路いとし・喜味こいしらの正統派しゃべくり漫才の系譜とは一線を画し、天性の発想力による奇抜なシチュエーション展開で笑わせるタイプの天才肌漫才。ダイマルの頭脳と身体(仕種の面白さもこの漫才の特徴の一つ)をフルに使った機関銃のような笑いの攻勢は、客席ばかりでなく時には相方ラケットさえ舞台上で笑わせてしまう(その様子がさらにおかしさを倍加する)ほどの凄まじい威力であった。またダイマルのボケを受けるラケットのツッコミも絶妙な間と、時にはボケに入れ替わって笑いを取ることができるほどの上手さであった。そのためダイ・ラケが舞台に立つと、客席の笑い声が凄すぎて小屋が揺れたという逸話が残っているほど。客席を笑わせる間隔の短さでは、このダイ・ラケを超える漫才はいまだに登場していないと言える。このため、ダイ・ラケコンビの漫才は、「3秒に1回笑わせる漫才」と言われることもある。
「中田ダイマル・ラケット 爆笑三夜」は3日間でアンコールも含めて計10席行ない、この独演会には関係者、プロの芸人などが訪れ舞台袖で生で見ていたという。
「中田ダイマル・ラケット 爆笑三夜」はCBSソニーからレコード化されており、読売テレビと大阪放送の収録して放送された。
代表作に、『僕は幽霊』『家庭混戦記』『僕の恋人君の恋人』『恋の手ほどき』『地球は回る目は回る』『僕は迷医』『僕は迷優』『僕の時計(僕の健康法)』『僕の漂流記』『僕の農園』『僕は小説家』『無線車』『ジャンケン』『僕の発明』などがあり、「いうてみてみ」「きいてみてみ」・「なんじゃとて」・「かわいそうになぁ」・「青火がパァ、ボヤがボォ」・「いっしょやいっしょ〜」・「そーやがな、そーやがな、そーやがな」等のフレ−ズが有名。(これらの言い回しは弟子筋にあたる中田カウスに受け継がれている)
読売テレビで主に昭和50年代に放送された「お笑いネットワーク」と「漫才笑学校」の中から、6本を収録したDVDがポニーキャニオンから発売されている。
初代Wヤングに中田治雄(本名:中田軍治)という人物がいたことから、彼らと師弟関係ではないかという噂も出たようだが、Wヤングは西川ヒノデ門下でありこれは事実ではない。
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