中島飛行機(なかじまひこうき)は、1917年から1950年まで存在した日本の航空機・エンジンのメーカー。創業者は元海軍機関将校であった中島知久平。エンジンや機体の開発を独自に行う能力を持ち、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、太平洋戦争終戦までは三菱航空機を凌ぐ東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。
目次
1 中島飛行機の沿革
2 解体後12社の沿革
2.1 自動車開発
2.2 航空宇宙・ロケット開発
2.3 富士重工業
3 代表的な航空機
3.1 日本陸軍向け
3.2 日本海軍向け
3.3 民間向け
4 代表的な航空エンジン
5 本社
6 製作所など
7 グループ会社
8 脚注
9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク
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中島飛行機の沿革
1917年(大正6年) - 中島知久平が海軍を退官後[1]、群馬県尾島町(現太田市)に「飛行機研究所」を設立。
1918年(大正7年) - 川西清兵衛が経営に参画、「日本飛行機製作所」に商号変更。
1919年(大正8年) - 川西から買取り、川西が経営から撤退。「中島飛行機製作所」に商号変更。陸軍から20機を受注。
1925年(大正14年) - 東京工場完成。
1931年(昭和6年) - 中島飛行機株式会社(資本金600万円)と改称。
1937年(昭和12年) - 九七式戦闘機が陸軍に正式採用。
1938年(昭和13年) - 武蔵製作所完成。
1940年(昭和15年) - 海軍機専用組み立て工場の中島飛行機小泉製作所を開設[2]。
1941年(昭和16年) - 一式戦闘機「隼」が陸軍に正式採用。
1944年(昭和19年)1月 - 陸軍機専用組み立て工場の中島飛行機宇都宮製作所を開設、正式採用された四式戦闘機「疾風」の生産を開始。
1945年(昭和20年)4月 - 第一軍需工廠となり事実上国営化。中島飛行機は営業休止しつつ存続。
1945年(昭和20年)8月 - 太平洋戦争敗戦により全工場返還を受け、社名を富士産業に改称。
1950年(昭和25年)5月 - 解散。
こうして日本の軍事力の強化とともに急速に発展を遂げるが、米軍による戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ各地の工場は灰燼に帰した。敗戦でGHQによって航空機の生産を禁止され、二度と軍需産業に進出できないように12社に解体された。
三鷹研究所跡地大半は国際基督教大学(ICU)となった。武蔵製作所はNTT武蔵野研究開発センタ、武蔵野中央公園、武蔵野陸上競技場(武蔵野総合体育館を併設)などになっている。
その後、技術者の多くは自動車産業へ転進。日本の自動車産業の発展に多大な貢献をした。
中島飛行機から解体された会社は多くが現在でも存続しており、
富士重工業 (SUBARU)以下の会社が共同で設立し、後に合併して出来た。
東京富士産業(本社→)
富士工業(中島飛行機太田工場と武蔵野工場→)
富士自動車工業(中島飛行機伊勢崎工場→)
大宮冨士工業(中島飛行機大宮工場→)
宇都宮車両(中島飛行機宇都宮工場→)
リズム(中島飛行機浜松工場→富士精密工業→プリンス自動車工業→分離独立・リズムフレンド製造→リズム自動車部品製造→リズム)
富士機械(中島飛行機前橋工場→富士機器→富士機械)
輸送機工業(中島飛行機半田製作所→愛知富士産業→輸送機工業)
マキタ沼津(中島飛行機三島工場→富士機械工業→富士発動機→富士ロビン→マキタ沼津)
GKNドライブライントルクテクノロジー(中島飛行機栃木工場→栃木富士産業→GKNドライブライントルクテクノロジー)