中尊寺
金色堂新覆堂
所在地岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
位置 ⇒北緯39度0分6.31秒
東経141度6分8.14秒
山号関山(かんざん)
宗派天台宗東北大本山
本尊阿弥陀如来(重要文化財)
創建年(伝) 嘉祥3年(850年)
開基(伝)慈覚大師円仁
札所等奥州三十三観音番外札所
文化財金色堂他(国宝)
木造阿弥陀如来坐像、金色堂旧覆堂他(重要文化財)
特別史跡
表・話・編・歴
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州観音札所番外。山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来、開山は慈覚大師円仁とされる。
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂(こんじきどう)をはじめ、多くの文化財を有する。1979年(昭和54年)5月22日、「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定された(「金色堂」については別項「中尊寺金色堂」を参照)。
2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定した。
目次
1 起源と歴史
1.1 草創伝承
1.2 奥州藤原氏と中尊寺
1.3 中世以降
2 伽藍
3 文化財
3.1 国宝
3.2 重要文化財
4 拝観について
5 注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
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寺伝によると、草創は平安時代初期にさかのぼり、嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのがはじまりという。その後貞観元年(859年)清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が堀河天皇の勅命を受けて伽藍を整備したのが、中尊寺の創建と見られる。
奥州藤原氏の実質的な初代である藤原清衡が平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建か)に着手したのは長治2年(1105年)、50歳の時であった。金色堂の建立は天治元年(1124年)、諸堂の整備が終わって、盛大な落慶供養が行われたのは着手から実に21年後の大治元年(1126年)で、清衡は71歳(死の2年前)であった。この落慶供養の際の願文(がんもん)の写本が残っているが、それによれば、中尊寺は前九年・後三年の役の戦没者を含め、あまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから建立されたものであった[1]。
平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂と毛越寺の庭園のみである。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続した。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出された「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん)という文書が引用されている。それによれば、当時の中尊寺には金色堂のほかに、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」(大長寿院)などがあったという。中尊寺には、建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。
近世の中尊寺は衰退し、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られる。近世を通じ、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われ、寛文5年(1665年)には東叡山寛永寺の末寺に組み込まれている。
1909年(明治42年)に本堂が再建。1950年に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体が調査される(中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体と泰衡の首級が納置されていた)。1958年には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。